【映画】『エレファント』「死」に収斂されゆく”日常”【ガス・ヴァン・サント監督作品】

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ガス・ヴァン・サント監督作品『エレファント』の感想/紹介記事となります。

1999年4月20日、アメリカで発生したコロンバイン高校銃乱射事件に基づいた作品。

わたしが本作を鑑賞したのは高校2年生の時。映画『桐島、部活やめるってよ』の繰り返される「金曜日」や登場人物たちを群像劇で描くためのカメラワークの手腕に衝撃をうけ、似たような作品がほかにないのかを探したときに出逢ったのが今作『エレファント』です。

高校生を群像劇で描くということ。Aくんが移動している時に、Bくんはあそこにいた。そのときCくんはDくんと話していたけれど、DくんはBくんのことが気になっていた、というような学校を舞台にして、複数の学生が一堂に会しているが、銘々違える意思と言動が交錯した状況。それらをカット割りや長回しなどのカメラワークで鮮やかに演出してみせる映画の見せ方にたいへん感動した感覚を今でも思い出せます。

この頃から、映画の「見せ方」ひとつで、物語の美しさがここまで広がっていくのだと実感し、以降の映画鑑賞ではただ物語を追うだけではなく、物語をどう物語っているのかの作り手側の”工夫”に意識できるようになりました。

この記事では、わたしにその気づきを与えてくれた映画『エレファント』について記していきます。

(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)

(あわせて読みたい記事→【社会派ドラマ】特集「悲劇にみる人間の輝き」
(音声はこちら→『エレファント』「死」に収斂されゆく”日常”

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解説

99年のコロンバイン高校での銃乱射事件を、初期には「ドラッグストア・カウボーイ」や「マイ・プライベート・アイダホ」を撮っていた「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のガス・バン・サント監督が描く。撮影は「裏切り者」「ゲーム」のハリス・サヴィデス。生徒役の出演者はみな俳優ではなく実際の高校生で、セリフは彼らが即興で話すという演出。03年のカンヌ映画祭でパルムドールと監督賞を史上初のダブル受賞。

引用:映画.com

実際に起きた銃乱射事件を題材にした映画です。

ある高校を舞台に、ありふれた生徒同士の交流を描き”日常”をリアルに描写。そして銃乱射事件の恐怖へと着々と収斂させていく様を描きます。

注目したいのが、登場人物たちを群像劇で切り取っている点。
詳しくは後述しますが、人物一人一人の”視点”から物語を進行させていくことで、リアリズムが重視された作品になっていると思うんですね。”いわゆる「映画」”は、ザ・主人公がまずいて、その者の活躍をダイナミックに描くことがおおいですが、今作では、12人の学生の”視点”が平等に物語を構成しているつくりとなっており、”いわゆる「映画」”的映画ではなく、ある高校の”日常”というリアルが巧みに表現された映画でした。

私にとっては、たいへん斬新であり新鮮な映画という印象で、やはり映画は奥が深いなと感動します。

以下では、この映画に施されたであろう作り手側の”工夫”を考察し、つぎにテーマについて感想をシェアしていきます。

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作り手側の”工夫”

今作では、リアリズム作品として成立させるための映像表現の工夫が冴えわたっているように感じるんですね。いくつか詳述したいと思います。

長回しショット

長回し」とは、長い間、カットせずにカメラを回し続ける映画の技法のことです(Wikipediaより)。
この手法が散見されるんですね。廊下を歩く学生の後ろ姿をひたすらに追う。道中で交わされる他愛もない会話もしっかりとらえます。ほかにも車の乗下車のシーンやスポーツをする学生の様子を定点カメラでしばらく映し続けるなどなど、省いてもよいであろうシーンを敢えて描写しています。

意味を考えてみると

人物の「生きている感」が活かされる

学生の”日常”をリアルに描くために、人物の一挙手一投足をとらえる必要がある。そのための長回しなのだと考えられます。

”いわゆる「映画」”的映画ならば、ある主題を表現するために、映像に映るものには何らかの意味が含まれるものです。しかし、”日常”をリアルに描写する今作では、その主題をあえてはっきりさせていないつくりになっているように思うんですね。というのも、人間のほとんどの言動に意味などないのが”日常”だから

この”日常”の無意味さを長回しの手法で表現しているのではないのかと考えます。また、人物の表情も長回しショットで描くことで、そんな無意味な”日常”のなかで、学生一人一人が何を考えているのかを観客に想像させる機能を果たしているように思います。

即興のせりふ

今作で登場するのが俳優ではなく、実際の高校生ということ、くわえてセリフが即興であることが物語のリアリズムに寄与しています。上述しましたとおり、”日常”の無意味さが表現されているということを前提に考えますと、セリフを即興にしているのも納得がいきます。

映画の主題をあらわすために脚本をしっかりと煮詰め、人物に意図したセリフを口にさせるのが”いわゆる「映画」”。しかし、本作は徹底したリアリズムが重視されています。そのため、実際の高校生が即興で会話をしたほうが、むしろリアルになるという狙いがあるのだと考えられます。

冴えわたる群像劇

本作では劇中に登場人物の名前が表記されます。全員で12名です。
・黄色い服を着たジョン
・カメラを撮るイーライ
・カップルのネイサンキャリー
・同性/異性愛同好会に参加するアケイディア
・銃乱射の実行犯エリックアレックス
・長袖のミシェル
・女子会ブリタニージョーダンニコル
・勇敢なベニー

彼らの視点を淡々と交互に描く群像劇としてこの映画は成立しています。だれが主人公とかでもなく、全員が平等に物語の一部となっているんですね。

表現として面白いのが、この人物たちの交錯をカメラワークで巧みに描かれている点です。たとえば、廊下を歩くイーライの後ろ姿を長回しショットで追いつつ、すれ違ったミシェルにカメラがパンされ、今度は彼女の後ろ姿を追うショットに切り替わる。ほかにも、校庭の様子を定点カメラで映しているシーンでミシェルが入り込んできて、「空を見上げる」という動作をしてからカメラから外れ、そのあとにネイサンが映り込み、ネイサンの後ろ姿を追うシーンになる、などなど。

言語化が難しく伝わりにくいと思いますが、この伝わりにくさが映像表現ならではなんだよなあ、ということを実感させます。ですので是非観てもらいたいに尽きます。

高校生の”日常”にフォーカスした群像劇が、”いわゆる「映画」”的でない映画すなわち、無意味な”日常”というリアルを演出しているように思います。

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「死」に収斂されゆく”日常”

リアルな”日常”が淡々と続くこの物語は、終盤の銃乱射事件へと展開していきます。

銃乱射事件を見せ場としていない点も見逃せません。ここでも淡々と描いているんですね。なぜなら、銃乱射すらも”日常”の延長だから。これはリアルな出来事なんですよ、ということを最後まで一貫させたつくりになっているんですね。

”日常”に「死」が介在しているということ、それは”いわゆる「映画」”でなくとも、実際に起きたことであり、起こりうる可能性のあるものだということを描いています。これまで人物描写を緻密に積み重ねてきたからこそ、「死」に収斂されゆく”日常”が現実のものとしてスッと入ってくる。ホラー映画のような表面的な恐怖ではなく、身近にあるリアルな恐怖を感じるんですね。そこがすごいんです。

「死」というものが”日常”のなかにある人間の情緒を発端としているということ。

食堂で食事をする学生を脇目に、ひとりアレックスは「作戦」を練る。食事=”日常”とする彼以外の人物が一同に会する食堂で、彼は”日常”を終わらせるための準備を着々と進めているのです。

ここでも群像劇としての効果が発揮されているように思います。12人の言動を追うことで彼らの一端をわたしたちは見てきたわけです。イーライはカメラで”日常”を美しく切り取りたいんだな、ネイサン&キャリーはデートを楽しみにしているんだな、アケイディアは多様性について考えたいんだな。

そして、アレックスとエリックは校内で銃を乱射したいんだな、と。

人生は「無意味な”日常”」の連続。
だからこそ”日常”に生きる人間の情緒がほとばしるのだと、感じずにはいられません。

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まとめ

群像劇の表現が人物の心情を映しだすのに効果的なものだということを今作で感じることができます。”工夫”に満ちたカメラワークと即興の演技が相まったリアリズムで、死生観を啓蒙する作品です。

・新鮮な映像表現を観たい人
・群像劇が好きな人
・学生
におすすめです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

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