“うっかり”じゃない、とにかく君を捜すことにした
雨の日は会えない、晴れた日は君を想う デイヴィスの台詞
映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』の感想/考察記事となります。
監督はジャン=マルク・ヴァレ。『ダラス・バイヤーズクラブ』が有名ですね。
もう彼の映画がつくられることはありませんが、彼の撮った映画は、私の記憶に残り続けます。今回はそのなかでも特に記憶に残っている(=感動した)作品についてをしたためます。
誰かと別れて、喪失して、はじめてその人のことが大切だったことに気づく。
そんな思いに心あたりはありませんでしょうか?執筆者はこのことを強烈に思い知った経験がありまして…。「人生は常に間に合わないものだ」と、感じました。
今作の主人公であるデイヴィス(写真の男性)もまた、そのような境遇に見舞われます。なので、すごく共感して、たまらなく好きです。
では、さっそく紹介していきたいと思います!よろしくお願いします~。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください。)
(音声はこちら→『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』“関わる”ということ)
あらすじ
ウォール街のエリート銀行員として出世コースに乗り、富も地位も手にしたデイヴィスは、高層タワーの上層階で空虚な数字と向き合う日々を送っていた。そんなある日、突然の事故で美しい妻が他界。しかし、一滴の涙も流すことができず、悲しみにすら無感覚に自分に気付いたデイヴィスは、本当に妻のことを愛していたのかもわからなくなってしまう。義父のある言葉をきっかけに、身の回りのあらゆるものを破壊し、自分の心の在り処を探し始めたデイヴィスは、その過程で妻が残していたメモを見つけるが……。
映画.com
ジャン=マルク・ヴァレ監督作品の主人公は「鬱屈」としていることが多いです。
●『ダラス・バイヤーズクラブ』
→エイズになって
●『シャープ・オブジェクト(~)』
→毒親からの支配、学生時代のトラウマ
●『雨の日は会えない、(~)』
→妻の喪失
ドラマなのだから、人物に葛藤させるのは
当然ですが、その濃度が高いんです。
そう感じる理由は…
「“過去”とか“記憶”などの描写を、ちょくちょく挟み込む」編集方法にあると思います。
日常生活を送るなかで、ふと昔の記憶が甦ることってありますよね(とくに嫌な思い出)。あれです。あの感覚を映像でみせてくる特徴があるんです。定かではない曖昧な記憶が、モヤのかかった情景となって眼前に広がり、心が領される感じ。
そうすることで、今を生きている人物の言動
に記憶が大きく影響しているということ。
また、人物の人となりを指し示す機能として
はたらく。
そのため…
「ヒューマンドラマ」の“重圧感”のようなものが増して、より物語の説得力を持たせることに寄与していると思うんです。
この効果が、今作『雨の日(~)』では
大きな意味を成しているんですね。
なぜなら…
妻ジュリアとの記憶を辿りながら、少しずつ自分の心に向き合っていくデイヴィスの心情を追う物語だから。
解体
“無関心”なデイヴィス
冒頭、車内にてデイヴィスと生前のジュリアが唯一言葉を交わすシーンから物語がはじまります。
「冷蔵庫の水漏れを直してほしい」とジュリアがデイヴィスに要望するだけなのですが、この会話が本作のテーマを考えるうえで大切だと思うんですね。
何かを直したり、修理したりするという行動は、「自分の心に向き合う」や「関係性を見直す」の比喩であり、ジュリアは単に冷蔵庫の修理だけを求めているのではなく、デイヴィスとジュリアの関係を考え直してほしいとも伝えている…と、解釈できます。
ただ、デイヴィスは真剣に聞き入れない。
そして、ジュリアから「興味がないのはわかっている」と言われてしまう。
すなわち…
2人の“関係性”が破綻していること
が示唆されるんですね。
デイヴィスはそのことにすら“無関心”だった…。
気づきはじめるデイヴィス
そして、交通事故によるジュリアの死。治療を受けていたであろう病床には、血痕だけが残されて、ジュリアの身体は消えています。
妻の死、大切なモノの喪失。
病院で目を覚ましたデイヴィスは、そのことを知っても悲しい表情を浮かべることはありません。理由は前述したとおりです。
しかし、何も変わらずいつもどおりの日常を送るかといったらそうでもない。
あらゆるモノを解体しはじめる。
冷蔵庫、コーヒーマシン、PC、トイレのドア、電球、家屋…。
解体するという行為は、「知ろうとする」ことの比喩だと思います。機械の構造を知ろうとする、他者の人生を知ろうとする…。デイヴィスが自分の無関心さに向き合い始めていることがわかります。“人間関係のあり方”を考え直している。
わかりやすいのは通勤電車で出会うジョンとの交流です。気さくに話しかけてきてくれた彼との会話を、コーヒーの臭いが気になるからというだけで中断したり、自分の仕事を偽って教えたりしていました(→関わることの拒否)。しかし、ジュリアの死後、その行いを反省しデイヴィスからジョンに会話を持ち掛けています。笑顔で談笑する2人にほっこり。からの電車の緊急停止です(!?)。要するに、このままじゃイカン!と思っているということ。
そして、物語は進み、カレンとクリスに出会います。
組立
妻の死をきっかけにはじまったデイヴィスの解体作業。知ろうとすることは、物語中盤で出会うカレンとクリスを愛そうとすることにつながります。
解体から、“組立”に転じていくのです。
カレンへの手紙
自動販売機にお金を入れたのに、商品がでてこなかったことのクレームのために、会社へ手紙を送り始めるデイヴィス。そのカスタマーサービスを担っていたのがカレンです。
手紙の内容はクレームではなく、デイヴィス自身がいまの心情を赤裸々に告白する――、という文章でした。
→デイヴィスの“心の解体”。
そして、彼の叙情に関心を抱くカレン。
交流が始まります。
注目したいのが、カレンとジュリアの対比。デイヴィスの“関係のあり方”の違いです。
ジュリアとは…真顔が多い
カレンとは…嬉々とした表情
ジュリアに対して抱いていなかった愛情が、カレンにはある…といった単純なことではありません。
解体(知ろうとする試み)をしていたデイヴィスが、ようやく「“組立”はじめる」ということ。すなわち、関係性を創りだそうとしている。
ジュリアに対しては疎かにしてしまっていた“愛情表現”の実行です。さながら、猿のグルーミングのように。
カレンから「本気で何かを大切に思ったことはない?」と尋ねられ、「速く走ること」と言うシーンが印象的。子どもの頃にはあった「“勝負”の関係性」を思い出しています。勝ちたかった、負けたくなかった…。
誰か・何かとの関係を持つためには、真剣になることが大切で、ちゃんと人を思いやることが欠かせないんですね。
クリスとの交流
デイヴィスが「F**Kは素晴らしい言葉だ」と諭すのが、カレンの息子クリスです。彼もこの物語のキーパーソン。
銃を発砲するシーンが特徴的です。
防弾チョッキを着てれば平気っしょ!的なノリで、自分をクリスに撃たせます。被弾して「最高ーーー!」と叫ぶデイヴィス。
なぜか。“痛みを感じて生きていることを改めて実感した”からだと思います。
「“存在”の実感(↔“喪失”の悲哀)」「“関係”の喜び」などを痛みを通じて、身をもって体感する。やはり、人との交流なくして感じることのできないものです。
そんなデイヴィスだからこそ(ジュリアを喪失する前の彼ではなく)、クリスは信頼して、自身のパーソナリティにまつわるある告白ができたんですね。
距離について
距離があるという幸せを、距離を見出せなくなった存在への愛とおきかえる。
人に触れること。人と会話を交わすこと。人に手紙を送ること。人に殴られたり、胸ぐらをつかまりたりすること。人にまなざしを向けること。人の口元にそっと手をやり、笑顔の表情をつくること。すべてが生きているからこそできることなんだ。喧嘩をすることも、忌み嫌うことも、愛することも、“関わること”からはじまっている。あなたの浮かべた微笑みが、いまも記憶として残っているのは、私たちが何かの縁でめぐり逢い、交流をしようとする明確な意志があったことの証拠。愛していなかったわけではない。ただ、疎かにしてしまっていただけ。人生とは間に合わないものだ。あの、優しさでつくられた温もりを感じることはもうない。距離さえも見出せなくなってしまったのだから。この後悔を受け入れて、せめて、記憶をなぞるように愛してみることにする。きっとそれは、何か大切なことのように思うから。
物理的な距離と、精神的な距離は違う。
この映画を観て、改めてそう思いました。
喪失によって引き裂かれるのは、
物理的な距離のみだと。
まとめ
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』を紹介しました!もう本当に、いつも好きです。最高すぎます。
ちゃんと人と関わることの大切さを教えてくれるんですよね。
・大切な人を喪失した方
・自分に正直になれない方
・人を愛したいと思っている方
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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