
物音ひとつない家の中、ひとりの女性。テーブルの上を滑らせた手は、紙片をやさしく掬う。寡黙な伶人のような落ち着きあるまなざしが、綴られた言葉を追っていく。やがて、紙片はごみ箱に投げ捨てられる。
――透明なガラス、綿のカーテン、頑丈にできた重たいドアの向こうで、今日も秘密が眠りについている。十分なやさしさを伴って、しめやかに、壮麗に。世界のあらゆる場所は、こうして夢から醒めないでいるのだろう。中空で踊る光の塵。静かに微笑む陶器の人形。蔦が這って伸びる寂れた家屋。風が届けてくれた名もなきバイオリンの音色。太陽の染み込む大きな雲。思いつめた表情で読書に耽る人。それらの漂わせる気配に包まれるたび、遠い記憶、忘れていた時間といった、とても愛おしいものを取り戻していくかのような感覚になる。
けれど、いずれ消えてしまう。壊されて、忘れさられて、死んで。世界になかったことになってしまう。君も、僕も、すべて。
だから、幽かな気配が体をくるんでいてくれる間だけは、君の呼吸が僕の心を撫でていてくれる間だけは、どうか一緒にいてほしいと思うんだ。
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