誰も私のことなど知らない場所に、行ってしまいたいと思うとがある。自由がほしいと幾度となく願い続け、それでも、1人で生きてくだけの能力も、覚悟もない。
そんな私とは反対に、
ロニートは地元を離れ単身NYへ。
人間のありのままを象るカメラマンとして生きる。父の他界を受け、戻った地元では、愛する女性エスティに思いを告げるのだ。
それが、とても美しい。
自分が自分であるための、選択。
天使と獣の間にて、自由をあたえられた存在である人間の浅ましく愛おしい選択の数々。
この映画から「人が自由に生きることの美しさ」と「人の自由を許す美しさ」を、同時に感じることができた。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』選択の自由)
あらすじ
超正統派ユダヤ・コミュニティで生まれ育ったロニートとエスティは互いにひかれ合うが、コミュニティの掟は2人の関係を許さなかった。やがてロニートはユダヤ教指導者の父と信仰を捨てて故郷を去り、残されたエスティは幼なじみと結婚してユダヤ社会で生きることに。時が経ち、父の死をきっかけにロニートが帰郷し、2人は再会を果たす。心の奥に封印してきた熱い思いが溢れ、信仰と愛の間で葛藤する2人は、本当の自分を取り戻すため、ある決断をする。
映画.com
セバスティアン・レリオ監督作品は、市井からの抑圧や排斥を受けながらも、自分が自分であるために生きる人物を勇ましく描いている。
『ナチュラルウーマン』では、LGBTQの観点から。『グロリア 永遠の青春』では、老い・人間の有限性の観点から。そして今作、『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』では、敬虔なユダヤ信者の多い街における、同性愛を描く。
逆境に苛まれる人間の日常を丹念に追い、人物1人(ないし2人以上)の苦悩にフォーカスをあてている点が3作に共通した特徴だと言える。
自由の肯定
まず、言いたい。
レイチェル・ワイズとレイチェル・マクアダムスが美人すぎる。
2人の同性愛を描いているだけに、絵的に最高なのだ。それも私が好きなイギリスの街並みのなかで展開されている。
「美しいものを見たい」。これも映画を観るうえで大切な要素。いや、人間の根源的な欲望からくる一番のモチベーションなのではないか。とにかく、私にとってこの映画は、ビジュアルからして好みだということ。
そして、この作品が言わんとすることも私好みだ。すなわち、”自由”の肯定である。際限なく許容されるべき人間の”選択”についてである。
上記したような邪(とされても仕方のない)な理由で、この映画が好きだ、と語ること。そうすることで、あなたに嫌悪感を抱かせてしまう可能性があることの自負とそれでも、私が本当に思っていることを語りたいという想いのせめぎあいのなかで、さて、どうするか…という選択。「選択肢がある」という自由の実感。
たしかな自由の実感がるのにも関わらず、私たちはしばしば、何かに、何者かに縛られては依存する。
人間には怠慢や脆弱があるからこそ、ちゃんと”選択”をする人が美しいと思える。私が私であるために、”自由”の過酷を生きる勇ましさだ。
本作は、そんな”自由”を、ロニートとエスティ2人の愛に結実させた物語である。
交わりをとおして、自己を知る
敬虔なユダヤ教信者の多い街で生まれ育ったロニートとエスティ。二人は同性愛者である。このことがユダヤの教え(それはそのまま街のルールと化している)に反しており、関係性をよしとしないという状況だ。
街の社会性VSロニート&エスティ
…という構図である。
社会性は、ヤハウェを信ずるユダヤ教を基盤としてできあがったもの。
「神」と対峙するロニート&エスティの「愛」という構図から、神とも渡り合う人間の崇高さを感じる。その感じは、エスティをみつめるロニートのまなざしや2人の隙間なく抱き合う姿から伺える。
宗教が街に生きるほとんどの人物に支持されているのに対し、ロニート&エスティは2人。この対比にこそ人間の”選択”の美しさがある。狭い室内にてロニートとエスティが激しく絡むシーンがいくつかあるが、それらのシーンが劇中において際立って美しく思えたのは、2人が社会性という抑圧から解放されて、唯一の人とともに、真の自分を生きているかのように見えるからだ。
劇中で象徴的なのが被り物である。信者が被る黒いハットやエスティのウィッグなどは、”敬虔な信者風”を獲得するための衣類である。一方、ロニートの衣服は”ニューヨーク風”だ。見た目で「あてがわれた社会性」を表現している。
だからこそ、それらを脱ぎ捨てて、ロニート&エスティが性交する姿に感動を覚える。
社会性をかなぐり捨てた、真の自分としての姿だからだ。
そして、性交相手が誰なのか、も重要だ。
なぜなら、脱衣のみで社会性から解放されるのならわけないからだ。
問題は精神である。
自分が本当に自分自身であるという自覚をするために大切なのは、自分が誰を愛していて、それを肌でわかるカタチで実践すること。身体的な交わりを通して、他者と一体になるかのような感覚を味わい。やがて、やはり自分は個人であることに気づく。
すなわち、
自分が”自由”であることに気づくのだ。
悲しいことではない。自由だからこそ、”抱擁”の価値がわかるのだから。そして、その相手を”選択”しているのは、紛れもなく自分であるという感覚。
人は他者を通して、自分を知る。
「ありのまま」とは、愛の実践とともに”自由”を感じることで、少しづつ理解できるものなのかもしれない。
まとめ
人が交わることの意味のひとつに、「自分を知る」ということが含まれるのかもしれない。そんなことを思わせてくれた作品だ。
触れ合うことで、両者が存在し合っていることの喜びを知る。そのためなのであれば、異性だろうと、同性だろうと関係がない。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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