今回はヨアキム・トリアー監督がてがけた映画『母の残像』と『テルマ』の感想記事となります。
ノルウェーの映画監督さんですね。カンヌ国際映画祭やアカデミー賞に作品が出品されるほどに注目されていて、同じく映画監督のラース・フォントリアーは遠戚にあたります。
2022年 7月1日より、新作『わたしは最悪。』が公開されます。ラブロマンスっぽいですねー。よき感じします、たのしみだー。
それで、この監督の過去作2つを感想とともに紹介していきたいと思います。
(※ネタバレ含みます、おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
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『母の残像』あらすじ
戦争写真家の母イザベルが謎の死を遂げてから3年。母の回顧展の準備のため、長男のジョナが父と弟が暮らす実家に戻ってくる。事故か、自殺か、不可解な部分が多いイザベルの死。久しぶりに顔を合わせた父と息子たちが妻への、そして母へのそれぞれの思いを語り、イザベルの知られざる一面を戸惑いながらも共有していく。3人はそうすることでイザベルの死を受け入れ、家族としての絆を取り戻していくかに見えたが……。
引用:映画.com 母の残像 解説
文章を読むとミステリー要素ありそうな感じがしますが、この作品でよりフォーカスされているのはヒューマンドラマかと思います。母の死の真相は?にせまるのではなくて、それを端緒とした人間の諸相を描いているのだと。
そして、イザベル(母)のみならず、ジーン(父)、ジョナ(兄)、コンラッド(弟)それぞれの基点を相対的に描くことで、そもそもが”人生はミステリーである”ということを伝えているのだと思います。
『母の残像』について
主観性と客観性の絶対的な境界
わたしはこの映画をみて、主観と客観はまるで違うものなんだ、ということを思い知りました。
主観 = 物事を認識する働き。外界に対する自我(がもつ意識内容)
客観 = 主観の認識の対象となるもの。主観または主体の作用とは別に、独立して存するもの
「わたしが感じていること」と「あなたが感じていること」。「わたしが思うこと」と「あなたが思うこと」。などはそれぞれ違う、同じ部分があったとしても、完全に一致することなんてありえない。わたしの認識以外は、その他の認識になってしまうということですね。
あたりまえなことを言っているのですが、人はわりと思い上がる。
代表的なのは”恋愛”でしょうか。
「愛してる」からの「わたしも」と言う恋人同士にこの映画は問うんですね、「本当ですか」と。もちろん「本当です」と答えるために、さまざまな行動に努めるわけですが、なにごとも主観である以上、”共有”というものには限界があるわけです。
そして、その事実は“嘘”という危険性をおびている。
最愛、家族の絆、あらゆる関係性においても嘘がある。その嘘を象徴するように劇中では不倫が描かれます。
出張先で不倫をするイザベル。妻子がいるにもかかわらず、元カノと関係をもつジョナ。
人は主観のなかに、
嘘をとどめることができる。
その嘘が、主観と客観に、わたしとあなたに決定的な隔絶を実感させる。
戦争写真家のイザベルが撮る写真は、戦地の悲惨な状況をうつします。しかし、写真に隔絶されたイザベルの”主観”は、世界(客観)に共有されえないんですね。悲しむイザベルの表情は、わたしのものでもあり、あなたたちのものでもある。
う~む、孤独だぁ。
人間は真に交わることはできない。いやですねと、悲しみにくれるだけで終わらずにこの映画は着地をしているように思います。どういうことかというと、主観(嘘)を許すんですね。
妻の不倫を知ったジーンがあっけらかんとしているんです(俺もあたらしい恋愛してるし的な感じで)。妻の不倫を、当然のこととして認めている。また、父と新しい恋人に鼻持ちならないコンラッドも、最後は二人を認めているんですね。わたしの主観とあなたの主観とにある隔絶を当然のこととして受け入れるということであります。
ジョナとコンラッドの寝顔に微笑む父ジーン
そこには、自由に”夢”をみることへの敬意があるわけですね。
うん、素敵。
『テルマ』あらすじ
ノルウェーの田舎町で、信仰心が強く抑圧的な両親の下で育ったテルマには、なぜか幼い頃の記憶がなかった。そんな彼女がオスロの大学に通うため一人暮らしを始め、同級生の女性アンニャと初めての恋に落ちる。欲望や罪の意識に悩みながらも、奔放なアンニャに惹かれていくテルマ。しかし、やがてテルマは突然の発作に襲われるようになり、周囲で不可解な出来事が続発。そしてある日、アンニャがこつ然と姿を消してしまい……。
引用:映画.com テルマ 解説
ポスターからしてミステリアスな怖い映画を想像しますが、わりとヒューマンドラマ/ラブロマンスです。なので、ポスターをみてこの作品に惹かれた方は肩透かしをくらう可能性がありますね。
子どもの成長が描かれたジュブナイルもののように思います。
『テルマ』について
愛を選択する物語
生きていくうえで、なにかに”従う”ことは時として必要です。
人間でいえば、子どもからした親。
時期でいえば、学生からみた社会。
事柄でいえば、宗教や法律。
従属を経て、成長し処世術を獲得していく
これは”自然”なことです。
この従属関係が劇中強調されています。冒頭では、氷で固まった泉の上を、テルマと父親が歩いているシーンがあり、テルマは氷の下で泳ぐ二匹の魚をみつめます。また、大学のプールでは、入水中のテルマが見上げるようなかたちで、アンニャをみつめます。どちらとも上下関係が映像的に示されています。
この従属や上下関係の描写は、人間の優位性を示しているのだと思います。
テルマが被る“優位性”は下記。
・親からの執拗な管理
・信仰(宗教)→ワイン、同性愛への抵抗
・病院(科学)
テルマのてんかんは、これら優位性に対する反抗または、自然への欲求(望めば叶う)としてのあらわれ。「科学/宗教(両親)」VS「自然(テルマ)」の構図です。
そして、自然にはテルマとアンニャの愛が含まれます。
科学でも宗教でも御しきれなかったテルマの超能力的なやつは⇒テルマの意志なんです。
最後には、その力を受け入れること(自分を受け入れること)で、親の軛から解放され、そして、アンニャへの愛を選び取り、幕引きでした。
この映画に対するわたしの解釈は、いろいろな価値観あるけど、自分自身の自然な摂理に従順になろうぜって感じです。
うん、まったくもってその通り!と共感いたすところでした。
まとめ
2作品とも”しめやか”な人間ドラマでした。退屈に思われる方がいるかもわかりませんが、しめやかなだけに、丁寧な”深さ”を感じます。
「基本的にはヒューマンドラマだけれども、ホラーやミステリー要素もまぶします。だけど、味わってほしいのはヒューマンドラマのほうだからね」的な作風のあるヨアキム・トリアー監督でした。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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