相米慎二監督が手掛けました映画『風花』の感想/紹介記事となります。
2000年に制作された相米監督の遺作となった映画です。同監督による映画は『セーラー服と機関銃』『台風クラブ』など、”子ども”の過渡期を描いた作品が多い印象を受けます。ですが今作は、”大人”の物語です。
人物の視点が、子どもから大人へと変わっていますが、共通して「死」がモチーフになっていることは変わりありません。
相米監督の映画には、死という概念がどっしりと佇んでいるように思います。そのうえでの人間を描いている。
『風花』にどんなメッセージが込められていたのかをわたしなりにお伝えできたらと思います。
はじめに相米監督作品に通底する特徴を記し、そのあとに『風花』について考えていきたいと思います。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『風花』意味を求めて)
死とともに
はじめに相米監督の映画に通底した特徴を記していきます。
リード文にも記しました、”子ども”の過渡期。
『セーラー服と機関銃』→ 高校生とヤクザ
『台風クラブ』→ 中学生と教師
といった具合に、相米監督の映画には、”子ども”と”大人”をセットにして描かれることが多いです。
かつては子どもだった大人と子どもを同時に物語で示すことで…
子どもの延長線上にある大人
⇒子どもの過渡期
を強調して描かれているように思うんです。
そして、協力にしろ、反目にしろ、両者の関係性を描くことで「死」と結び付けている。
子ども → 大人
”→” = 老い
つまり、子どもの過渡期を描きつつ、老いた先の大人、行き着く先の死を同時に捉えた映画ということ。
たとえば『台風クラブ』では、台風のなか校舎にのこる中学生が描かれます。はじめは『スタンド・バイ・ミー』みたいな爽やかなジュブナイルものだったのが、中盤でキューブリックの『シャイニング』がはじまるみたいな展開があります。
というのは、物語のなかである女子中学生に好意をよせるある男子中学生がいきなりその女子に火傷を負わせたり、いきなり『シャイニング』よろしくな追いかけっこを始めます。
突如としてホラー要素が入るんですね、中学生ですから何をしでかすかわからない、つまり恐ろしい。
このジャンルの横断が示すのは…
死とはまだ遠い存在と思われた”子ども”の世界にも、常に「死」は共にある
ということを表現しているのだと思います。
このように「死」を絶えず物語に横たわらせることで人間、社会、世界、それぞれにある”救いがたさ”のようなもの示します。そのうえで、子どもの過渡期のなかでの、”絶望”と”希望”の共存を描く…って感じかなと思います。
また、子どもと大人の境界線を意識されているように思います。先ほど記しました『台風クラブ』のちょー怖い追いかけっこシーンでは、なんとか教室に逃げ込んだ女子中学生が”ドア”を背に寄りかかっていると、男子中学生が蹴破ってそのドアを突破しようとします。ここがかなり怖い。
『お引越し』という映画でも別居中の両親の仲をとりもとうと、女子小学生の主人公が意思表示のためにお風呂にたてこもるシーンがあります。それで、そのガラスのドアを殴って破る母親、血だらけの腕がその子を捕えようとします。
ドア・窓の隔たり = 子どもと大人の境界
として描き、破壊しているんですね。
それは、隔たりの向こうの”死”を子どもが認める、ということにつながります。子どもが人間についてや社会についてを知る瞬間を描いている、過渡期ですね。
これは極めてリアルです。高校生であっても機関銃があれば、簡単にヤクザを殺めることができますし、中学生であっても意思さえあれば自殺既遂を実現できる。
相米信二監督の作品は、そうした世界のリアルを子どもと大人を共存させたうえで描いているんですね。
映画『風花』について
映画『風花』では、子どもの過渡期のあとの”大人”が描かれます。なんとか”子ども”は生き抜いた、されど現実は甘くない、”大人”の世界にも絶えず「死」はあるんですね。
あらすじ
東京でひとり暮らしをしているキャリア官僚の廉司は、酔っ払って起こした万引き事件が週刊誌ネタとなり謹慎中の身の上。ゆり子は、死別した夫の残した借金返済の為に幼い娘を故郷の母親に預け、東京でひとり暮らしをしているピンサロ嬢。そんなふたりが出会い、ゆり子の故郷である北海道へ行くことになった。しかし、性格も生活も全く違うふたりの旅はぎくしゃくしっぱなし。その上、ゆり子は親の反対で娘に会うことが叶わず、廉司も上司から一方的に解雇を言い渡されてしまう。
引用:映画.com
意味を求めて
この映画は前の記事で取り上げましたNetflixオリジナルドラマ『このサイテーな世界の終わり』に重なります。
(あわせて読みたい記事→『このサイテーな世界の終わり』静寂に音があると知った)
ジェームスとアリッサのロードトリップ、そのまま澤城廉司と富田ゆり子に対応します。
すなわち、人生の意味を求めたドラマです。
絶えず「意味あんの?」と問う廉司。
娘との再会にくすぶるゆり子。
廉司が問うのは…
自分の人生に意味を感じていないから
ゆり子がくすぶるのは…
娘にとって自分の存在に意味があるとは思えないから
”意味”を喪失した2人の交流のさきにあるのは、絶望か希望か。相米慎二監督の「死」の概念が、ここでも「意味の喪失」というかたちで結ばれています。
この映画では意味の喪失(→人生の無意味さ)が強調されていて、そんななかでの人間が描かれているように思います。
『台風クラブ』では中学生が教師に反目したように、無垢がゆえの”無意味さ”への抵抗が描かれ、『風花』では”意味”の断念、すなわち”無意味さの受容”のあり方を描いているんですね。
大人になって「死」が現実的になったからこその諦念のようなものが前面にでている。
そのうえでのラストですよ、最高なんですよ。ネタバレは避けたいので詳しくは記しませんが、「死」をまえにした大人の輝きをみることができるんです。
ぜひ、鑑賞して、確かめてほしいと思います。
最高なシーン
劇中で最高なシーンをあげたいと思います。
それは「桜吹雪」です。
物語で桜吹雪が舞う場面がいくつかあります。そのなかに人間がいる、それが美しいんです。文章では伝わらないと思うのでぜひ本編をみていただきたいのですが、わたし必ずその場面で泣いてしまうんですよね。
想起のシーンで桜吹雪が舞っているのもあります。ちょー良い。
雪(死) ↔ 桜(生) の対比です。
死と拮抗する記憶というのもポイントです。忘れられない、忘れたくない、思い出していたい、そんな人。
あの人との思い出は、ひとつの希望です。
まとめ
邦画映画で好きな作品をあげるとしたら、まず思い出すのが『風花』です。
「死」は絶えず人生に横たわっている。
それを承知したうえでの「生」を描く。
そこに、人間の輝きを観ます。
・人生に意味を感じない人
・無気力な人
・忘れたくないことがある人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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