「更紗は、更紗だけのものだ」
予告編にもあるこの台詞に惹かれ、映画館に足を運びました。
濃く、重い人間ドラマ。”人たち”の軽薄さをあきらかにすることで、”人”への誠実さとは何なのかを問うている。そんな映画だと思いました。
今回は、映画を観たあとの所感を記したいと思います。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
あらすじ
帰れない事情を抱えた少女・更紗(さらさ)と、彼女を家に招き入れた孤独な大学生・文(ふみ)。
引用:映画『流浪の月』公式サイト
居場所を見つけた幸せを噛みしめたその夏の終わり、文は「誘拐犯」、更紗は「被害女児」となった。
15年後。偶然の再会を遂げたふたり。それぞれの隣には現在の恋人、亮と谷がいた。
この映画はジャンルとして、ヒューマンドラマ×ミステリーに括られるかと思います。
なにがミステリーなのかというと、更紗の「帰れない事情」、文の「孤独の理由」をほどいていくところにあります。
なので、人物の”心情”にフォーカスし、ミステリーとして扱うことで、アハ体験とともに上質な人間ドラマを堪能できる構成になっているように思います。
所感
人は、人とのつながりがあるから生きていける。
生をうけるのは母親や父親がいたから。生きていけるのは母親や父親はじめ、いろいろな人が面倒をみてくれたから。
それは事実…
けれど、だからといって100%感謝しなくてはいけないのでしょうか。
たとえば、虐待があったなら。
たとえば、いじめがあったなら。
たとえば、裏切りがあったなら。
100%の感謝は必要なのでしょうか。
「感謝すべき」という社会通念は、本当に正しいものなのか。
そんなはずはない、人はもっと複雑だ。
だから、更紗と文は悲しんでいるのだ。
「ちゃんと、みて」
この言葉は、文が母親に告げたものであると同時に、社会に対するメッセージなのだと思います。
みてほしいものは、なにか。…それは真意。
真意=ほんとうの気持ち、またはその意味
人の真意を理解せずに、人が人にできることなんてたかが知れている。
だから、人のほとんどの試みは、失敗に終わるか、自惚れに終わるかで、真に人を救うということはなかなか出来たもんじゃない。
限界を見極めた誠実さが必要なのだと思う。
けれども世の中ときたら、それを”娯楽”にするからタチが悪い。正義を冠した娯楽なら、もっとタチが悪い。
正しい行いが人を救うのであれば、その正しさは誰にとってのものであるべきか。それは、救われる側である。救われる側が「救ってほしい」と言うまでは、正義が介在する余地はない。
けれど考えてみてほしい。悲しむ人が、「救ってほしい」というだろうか。穢れた真意を晒せるほどに、人を信頼できるだろうか。たとえ信頼し、話すことができたとして、その内容は詳細までに、その人に伝わるだろうか。
ほとんど不可能だと思えてくる。
だから、せめて言うのだ「ちゃんと、みて」と。
そして、
となりで本を読むだけでいい。
もしそれでも悲しいのであれば。
そっと頭をなでるだけでいい。
それしかできない。
でも、それはできる。
100%救えはしないけれど、そっとそばに居てあげることはできる。それが大切なんだと思いました。
まとめ
ハル・ハートリー監督の『トラスト・ミー』の最後に、「そばにいたいから」という台詞があります。これは、悲しみを抱える男に、絶えず寄り添う女が、その理由を問われた際の言葉です。
人が人にできることには限界がある。ある程度は救えても、完全に救うことはできない。だからある程度は満足しても、それ以上は傲慢。
それを踏まえたうえで、それでも「ちゃんと、みて」「そばにいたいから」なんだと思います。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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