愛を知らないふたり、死と出逢う
Netflixオリジナルドラマ『このサイテーな世界の終わり』の感想/紹介記事です。
「ウォ?(what?)」がくせになる本作は、イギリスで制作されたボーイミーツガールものでございます。風変わりな少年少女のロードトリップが描かれているのですが、その道中でまきおこる出来事がぶっとんでいておもしろい。
season1.2があり、それぞれ8話で構成されています。1話が約20分くらいですので、とても見やすいですね。
コメディ要素が強いですが、それだけに終始する物語でないところが見どころです。
ジェームス(右)とアリッサ(左)のふたりが、
世界にあるサイコーなものを確かにし、サイテーな世界の終焉をいかに迎えていったのかが描かれます。
存在していること、存在することの愛おしさを教えてくれる作品だと思っております。
そうした部分をみなさまと共有していければと思います。
season1の4~5話
season2の7話~8話
がとくにサイコーですので、そこを中心に記していきます。
(※ネタバレを含みます、おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
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(音声はこちら→『このサイテーな世界の終わり』静寂に音があると知った)
ジェームスとアリッサについて
この物語の主人公、ジェームスとアリッサ。とにかく、このふたりが愛おしくてたまらないです。
ジュブナイルものではありますが、学園生活がまったく描かれず、1話からロードトリップがはじまります。親や学校、社会といった世俗から、はなから距離をおくニヒルなふたり。それがジェームスとアリッサです。
ふたりを形容すれば…
無感動ジェームス
疎外感アリッサ
となるかと思います。
ジェームス
物語は彼のモノローグからはじまり、そこで自身をサイコパスだと語っております。サイコパスは共感能力が乏しく、それでいて理性的にふるまえる人をさします。学校の食堂ではひとりヘッドフォン聴きながら、周囲の人を観察している。見るからに、自ら積極的に交流をはかろうとするタイプではありません。
で、中盤でわかることですが、ジェームスはサイコパスではなく、ものごとに無感動なんですね。
感動をするために、殺害の衝動をもっていたということであります。背景には母親の自殺という出来事があるわけです。かなりショッキングな生い立ちですよね。
アリッサ
活発快活なアリッサです。女子グループにも堂々と自分の意思を発言できる強さが伺えますね。歯に衣着せぬ物言いをし、喜怒哀楽がわかりやすいです。
まえの記事で、ジブリ作品『海がきこえる』の武藤里伽子について書きました。
アリッサは、里伽子の性格+ブラックジョークといった感じですね。
(あわせて読みたい記事→【ジブリ作品】『海がきこえる』自分の意思をとりもどす)
ただ彼女も問題を抱えています
それは、疎外感です。
アリッサのことを邪険に扱う義理の父、そのことを気づいていても無視をする母、くわえて実父との別れ。それらのことで、アリッサはだいぶ参っている様子です。
自分の居場所がない、愛してくれる人、愛する人がいない、社会から疎外されている。みたいな感じで思っているんですね。
無感動ジェームスと疎外感アリッサ。
訳はちがうも、生きずらさを抱えるふたりのロードトリップ。
彼らはそこになにを見出したのでしょうか。
静寂に音があると知った
「その日、静寂に音があることを知った」
これはseason1の4話ラスト、ジェームスの独白です。
ここが感動的なのは、無感動であったはずのジェームスが変化を自覚した瞬間だからであります。サイコパスだと思い込んでいたジェームスが、アリッサという大切な存在の喪失を経験し、そのいたみを実感する。
肉体的な”いたみ”ではなく、
精神的な”いたみ”。
静寂に音があるという矛盾は、聴覚でうけとる外部の刺激からではなく、内部からの音、すなわち心があるということの実感であります。
無感動な自分 ⇒ 感動できている自分
を自覚したジェームス。
その自覚はまぎれもなくアリッサという存在があったからです。それまでの1話~3話において、ジェームスとアリッサは隣り合っています。
今作では、この”隣り合うふたり”が強調されて描かれていると思うんですね。
(向かい合っているときは対立)
・学校のベンチ
・レストランのソファー
・ジェームスの実家のベンチ
・車の運転席と助手席
・ホテルのベット
となりに自分以外の人がいるということ。
他者の存在をたしかめることで、
自分の存在を実感する。
ジェームスが昔、隣り合っていたはずの母親の喪失は…
自身の無感動 = 存在することの無意味さ
に繋がってしまいました。
それがトラウマとなって、自身をサイコパスだとまがえるほどに無感動に生きてきた。
そんな心境のジェームスに、
アリッサが隣り合う。
season1の2話では無感動なジェームスに…
「これから何する?」
「何やったっていいんだよ」
「本気でやってよ」
「たまには自分で考えなよ」
「何かされてもイヤなら拒めばいい」
とアリッサが語りかけています。
要するに感動しなさい、存在しなさいってことを言ってくれている。無感動に生きてきたジェームスにとって、アリッサのはつらつさはよい処方箋になっていたことでしょう。
そんなアリッサとの別れを経て、いよいよジェームスは感動を実感したわけであります。
「静寂のなかにある耳をつんざく音」とは…
隣り合っていた人への想い
だったのではないでしょうか。
あなたのことは分からない、
あなたの名前は呼べる
ジェームスとアリッサは隣り合うことで、
ふたりの存在を確かめ合っていた。
ヴィム・ヴェンダース監督の映画『都会のアリス』を紹介したまえの記事でも、似たことを記しています。
(あわせて読みたい記事→【映画 ヴィム・ヴェンダース監督作品】『都会のアリス』存在を確かめ合う2人)
この記事では”名前”を呼びあうことが存在の確立であると書きました。
”存在し合う”というのは、道ですれ違う人を確認するのとは違い、特別なことです。その特別さをあらわすことのひとつに、価値ある存在のための”名前”の呼称があります。
この記事でもおなじことを言いたい。
「ジェームス」
「アリッサ」
そして…「ボニー」
season2の7話では、ボニーの名をアリッサが呼びかけるシーンがあります。つぎのシーンでは、ボニーの自殺をジェームスとアリッサがとめる姿が描かれます。
無感動ジェームス&疎外感アリッサだったふたりが、それでも”存在”を肯定する素敵なシーン。
season2の物語の文脈を省略して書いているので伝わりづらいと思うのですが、このまま書きます。
カフェにて3人は、”存在”と”死”がまじりあうシチュエーションを共有しているんですね。
この3人”のみ”です。
それまでほかの客や警察官がいましたが、退場しています。
3人”のみ”というのが重要。なぜか、それは3人のみにしか共有しえない”確執”で結ばれているということが際立つからです。
確執が愛であれ、憎しみであれ、そうした「感動」はわたしたちが存在していることをはっきりと実感させるものです。
その存在していることの尊さを、ジェームスとアリッサは知っている。だから、恐怖を経験していても、死をまえにしても、それでもボニーの自殺を止めることができた。
ボニーはふたりに抑えられ、泣きながら「すごく疲れた」と言います。
season1の2話ではアリッサも「疲れた」と吐きます。
この疲れは静寂のなかにある耳をつんざく音によるものでしょう。
決して他者がこの音を解決することはできないけれど、身に覚えのある事の共感と、名を呼ぶことはできる。だからアリッサは、「わかる」と返事をしたのだと思います。
season2の8話で、ジェームスはアリッサの濡れた上着を発見します。その服は、season1の1話でアリッサが母に無理に脱がされた服であり、season1の5話での母の入水自殺をジェームスに想起させました。
存在するだけで苦しい。
絶えず「存在」は、
その音に追いやられている。
それでも…
ジェームスの「アリッサ」
アリッサの「ジェームス」
お互いの名前を呼び合うことで、自分の名を呼ぶ他者の声で、静寂にある音はかきけされ、わたしたちは存在し続けていける。
まとめ
存在することの尊さを教えてくれる素敵な作品でした。
ロードトリップでの、あらゆるぶっとんだ出来事(犯罪とかですね)をユーモラスに描くことで、そうした警察沙汰を顧みないほどの愛についてを強調しています。
ジェームスとアリッサが
本当に愛おしくなりますよ。
・ニヒルな人
・孤独な人
・ジュブナイルものが好きな人
・ラブロマンスが好きな人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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