映画『ビューティフル・デイ』の感想/考察記事となります。
今作はカンヌ国際映画祭にて、脚本賞&男優賞を受賞した作品。『少年は残酷な弓を射る』のリン・ラムジー監督がメガホンをとったスリラー映画となります。
日本人が海外俳優の演技の良し悪しを判断するのは、日本俳優をするのに比べると難しいものかと思います。ですが、ホアキン・フェニックスは別だということに誰もが頷くのはないでしょうか。アカデミー賞のお墨付きもある彼の演技が、いかに映画の良し悪しが演者の身体性に宿るものなのかということを示しています。
映像で物語る映画という芸術が表現する美。それは文章をとおして理解を促すのではなく、映像をとおして感覚にはたらきかけてくる。見たことのあるあの感じが、身におぼのあるあの感情と連結し、わたしたちに深い感動の湖へと突き落としてきます。
そんな素敵な今作の魅力を文章でお伝えしようと試みた記事となりますので、ご興味のある方はお付き合いくださいませ。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(あわせて読みたい記事→【映画&ドラマ】特集 人生を彩る物語 10選)
(音声はこちら→『ビューディフル・デイ』生きながらにして”死”んでいる)
あらすじ
元軍人の主人公ジョーは、人身売買などの裏社会の闇に堕ちて行方不明になった少女たちの捜索と奪還を請け負うスペシャリスト。年老いた母親と静かな生活を送る一方、長年のトラウマに苛まれる彼の心中にはつねに不安が渦巻いている。そん なジョーのもとに新たに舞い込んできたのは、売春組織に囚われた娘ニーナを連れ戻してほしいという政治家からの依頼。仕事を遂行するためなら血生臭い殺しも辞さないジョーは、組織の娼館からニーナを救出するが、心ここにあらずといった様子の彼女は人形のように無反応だった。やがて謎の襲撃者にニーナをさらわれてしまい、さらなる非情な事態に陥ったジョーは、自分が恐るべき陰謀に巻き込まれたことを知る。この極限の悪夢の中で生きる理由を見失ったジョーは、はたしていかなる行動に打って出るのか……。
Filmarks
物語はいたって普通です。中年男性の少女救出劇。ただ、ジャンルがアクションではなくスリラーとされている部分がポイント。この映画のあらすじだけを読むと、アクションを楽しめそう!と思う方が多いとおもいますが、そんな期待に応える作品ではないことは確かです。
びっくりするくらい素っ気ないアクション描写なんです。
見どころとすることもできたであろう、ジョーのニーナ救出シーンでは、ほとんどが建物内に設置された監視カメラの白黒映像で映される始末。
この映画の魅力は、アクションではなく、ドラマにある。そこについて記していきます。
生きながらにして”死”んでいる
「生きながらにして”死”んでいる」
このフレーズが鑑賞中に何度も呼び起こされました。主人公・ジョーの視点から物語が展開していくのですが、彼の無気力、無感動が半端ないんです。
たとえば、仕事の仲介人である人物がジョーにクルーズを誘うシーンがあるのですが、話をまったく聞いていなかったのか「何だって?」からのすかさずカットがはいる。
ほかにも、ニーナ救出の依頼をだした州上院議員アルバートの「奴ら(ニーナをさらった者たち)を痛めつけてくれ」という懇願に対し、呆然としていてなにも返答をしないジョー。
極めつけは暴力描写です。あらすじの項目のところでも記しましたが、本作の魅力がアクションではない理由の原因に、ジョーの暴力にほとんど感情が乗っていないように思われるからです。淡々と着実に業務の一環としての暴力・殺人。
こんな感じで、ジョーの”感情”の欠落が読み取れます。
くわえて、ジョーのフラッシュバックが上乗せされます。
・幼少期の虐待
・軍人/FBI時の殺害現場
が確認され、どれも”死”が連想される場面。
映画冒頭でも、ジョーが顔全体をビニールで覆い、窒息死を試みた自殺企図とおぼしきシーンからはじまっています。
以上、記しました描写の数々から、”感情”なき人生&”死”の追憶2セットが、生きながらにして”死”んでいるジョーの人物造形を形づくります。
そんな彼が少女ニーナを救出する物語。
”行方不明となった少女の捜索”を生業とするジョーですが、さながら、探しているのは少女だけではないのかもしれません。
映画『アメリカン・サイコ』との類似点
ニューヨーク・ウォール街の証券会社で働くエリート男性の狂気を描いた『アメリカン・サイコ』。この映画との類似点が見出せましたので記します。
『アメリカン・サイコ』では、主人公パトリックの狂気的な奇行が描かれていますが、本作が表象したものは、その狂気性ではなく、彼を内包するウォール街という社会の異常性だったと解釈しております。幾度となく殺人を犯しても、一向に誰からも気づかれない。パトリックの狂った犯行も巨大な社会にあっては、まるでなかったことかのような扱いを受ける。
社会に埋没する個人の狂気です。
ゆきつく先の孤独、転じて、「”生”のむなしさ」が描かれるんですね。
『ビューティフル・デイ』もまた、それと同じ境遇にジョーが見舞われる。そこが類似点になります。おもしろい演出も施されておりまして、車の行き交う道路を歩くジョーの姿が、車が過ぎ去ると同時に消える、だったり、電車の線路越しに下からジョーの姿を映したショットで、電車が過ぎ去ると同時に姿が消える、等々。
市井の存在としてのジョーをことさら描写しつつも、その存在のあやうさや不在の兆しを予感するような演出が散見されます。
先述しました社会に埋没する個人と重なりますね。
そして、この「”生”のむなしさ」に追い打ちをかけるように、”死”が連想されるジョーのフラッシュバックが描写される。過去のトラウマが、現在の不確かさ助長するかのようにです。
フラッシュバックで、”足”が反復されます。その足は、ジョーの軍人時代に目撃した少女の亡骸のものです。
また、それ以外にも、母親とニーナの足がクロースアップで映されています。この伏線についても後述します。
ドラマ『このサイテーな世界の終わり』との類似点
海外ドラマで一番好きと言っても過言ではない作品『このサイテーな世界の終わり』。
ジェームスとアリッサ、2人の逃避行をユーモラス且つドラマチックに描いたジュブナイルもの。このブログでも記事をしたためていますので、よかったら覗いてみてください。
→【Netflixオリジナルドラマ】『このサイテーな世界の終わり』静寂に音があると知った
今作とも類似点が見出せましたので記します。
キーワードとしては、”血”です。『このサイテーな世界の終わり』、『ビューティフル・デイ』どちらも”血”が大事な要素となっています。前者ではジェームスがある人物の首を掻っ切たあとに、床にひろがりゆく血が描写され、後者ではジョーが銃撃で倒れる人物の鮮血を顔にあびる描写などがあります。
この”血”の要素が、2作品に共通した機能を果たしているように思うんです。それが…
存在の実感
『このサイテーな世界の終わり』では、「存在」がテーマだと解釈しています。
逃避行のさなか、ジェームスとアリッサはある殺人を犯してしまいます。人を殺めるということ=不在ならしめる行いであります。したたりゆく血を見ることで、存在していたものが消失していく過程を見るのです。”血”の目撃が、存在と不在を別つ要素として機能するということ。
物語は、そんな劇的なドラマを経て、ジェームスとアリッサがお互いが存在し合うことの尊さに気づくまでが描かれます。
存在し合うことの尊さ、『ビューティフル・デイ』では、ジョーとニーナがそれを経験するのです。
ジョーが顔に血をあびる描写は映画の中盤でして、”血”が強調されるのは、そこで初めてです。あらすじの項目のところで記しました、ニーナ救出白黒映像アクションでは、”血”が映されません。これが意味することは、”血”がない=ジョーの不在、であると考えられます。白黒映像と”血”が対比されていることがわかります。ジョーが鮮血をあび、”血”が強調されるのは、ニーナ救出後。
つまり、ニーナという存在がジョーに「存在の実感」を感じさせた、ということ。
車で隣り合うジェームスとアリッサとおなじように、ニーナの濡れた頭をふくジョーと、ジョーの名を叫ぶニーナは、お互いがお互いに存在していることを確かめ合っているのです。
生きてゆく
ここまでをまとめますと…
「社会への埋没」
→”生(存在)”のむなしさ、”死”の連想
⇓
「ニーナとの邂逅」
→”生(存在)”の実感
であります。
後半では、このことが顕著に示されるシーンがあります。ネタバレは避けたいので詳述はしませんが、湖に沈みゆくジョーが這い上がることを決意する瞬間です。
その場に居ないはずのニーナをも沈んでいくさまを直接的に映すことで、ジョーのフラッシュバックとは別の、現実に存在する幻(ヘンテコなフレーズですみません、伝わればいいです)を描いています。からの、じゃりじゃりと砂利道を踏みしめて歩むジョーの姿が描写されます。
これは先述しました”足”の伏線回収であると考えられます。ジョーのフラッシュバックで反復された”足”は、”死”の連想すなわち”生”のむなしさでした。
それでも、歩む。
…ニーナが存在しているから。
それでも、生きる。
なぜか、それはジョーが存在しているからです。
生きながらにして”死”んでいる。
それでも、生きてゆく。
あなたがいるのだから。
ニーナ「ジョー 目を覚まして」
映画『ビューティフル・デイ』の台詞より
ジョー「何?」
ニーナ「行きましょ
今日はいいお天気よ」
ジョー「確かに いい天気だ」
まとめ
私の良い映画の基準のひとつは、何回も観たくなるかどうかです。その境は、「物語の内容」ではなく、「物語の内容が表象したもの」が描かれるかどうか。物語が劇的でなくても、映画として美しいことはよくあることで、まさにそれが私にとっての良い映画。
映画『ビューティフル・デイ』は紛れもなく、良い映画でありました。
・慎み深い人
・生きがいのない人
・大切な存在を求めている人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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