
「静かな夜に鑑賞したい単館映画5選」と題しまして、筆者がおすすめしたい単館映画を束ねました。
■ネオンデーモン
■グリーン・ナイト
■不思議の国のシドニ
■ぼくのお日さま
■時々、私は考える
どちらかといえばマイナー作品として括られる映画だと思います。不思議な物語で感想を言葉にするのは難しいけれど、観る前と後とでは、確かになにかが変わっていた。そんな筆者自身の鑑賞体験・心象をベースにしております。気になる作品がありましたら、ぜひご覧くださいませ。
詩的映画文筆とは……
筆者の映画の鑑賞体験を
詩的に言語化した文章です。
映画『ネオン・デーモン』ニコラス・ウィンディング・レフン監督

死の間際
※ネタバレを含みます。ご注意ください。
死の間際、思い出される記憶は何だろう、どんな情景が浮かぶのだろう。生の世界にも死の世界にも属さない、まどろみが際限なく引き延ばされたようなところで、束の間の再会を果たすことができるのだろうか。
美しいものの破滅や衰亡、最果て。大切にしてきた時間が脆くも崩れ去り、消え失せるさま。自然の摂理からは逃れられないと、身をもって確信する人間の、その双眸が、ある世界の幕切れとともに儚くも閉ざされていく。銀幕を通してそうした光景と対峙するたびに、快い感情に満たされる。なぜなら、終焉を目の当たりにすることは、絶望に打ちひしがれる者に捧げられる激励になると思うからだ。死にゆく人間の哀愁と諦念の漂う面持ちが、来たるべき安寧を報せると同時に、夢に破れ、愛に見放され、喪い続ける生者へ、生きる感動を問いただすかのようにうつる。
ジェシーの最期。広がりゆく血を背に遠く煌めく星々を眺めるそのさまは、津原泰水著『綺譚集』の一編「玄い森の底から」における最後の一節を彷彿とさせた。
映画『グリーン・ナイト』デヴィッド・ロウリー監督

欲望との戯れ
ある騎士が、名誉を得るため旅に出る。
しかし、
待ち受けるのは冒険譚というには程遠い、
残酷と淫靡にまみれた凡庸な日々だった。
旅の仲間には出会わず、
葡萄酒に溺れるひと時もなく、
竜が守りし金鉱脈も見当たらない。
苔むす険阻な山路を、
不快な微風に撫でられながら進むのみ。
ここにあるのは、無言の時間と蹄の音。
剣は静かに暗闇と同衾している。
善意が嘲笑の的となり、
言動のための源泉は汚染され、
人生の意味を喪う。
秩序ある世界は忽ちに堕し、
残骸と醜態だけが根を張り
自然の滋養となっていく。
そして今日も、幼女の脚が押し開かれる。
欲望との戯れは、
光を求めたあげくに死ぬ
舞舞蛾のそれだ。
【映画】『不思議の国のシドニ』エリーズ・ジラール監督

イザベル・ユペールが好きだ
イザベル・ユペールが好きだ。
妖艶な立ち居振る舞いのさなかに
忽然とあらわれる可憐な微笑み。
威嚇と誘惑をマルチタスクする瞳、
もしくは舞台を終えた操り人形が
いつもの指定位置に腰かけ、
己の惨めな人生を憂うために
こしらえた冷たい瞳。
ブロンドにも赤毛にも茶髪にも
染まる艷やかな髪の毛に、
トレードマークの凛々しいエラ顎。
大きめの顔に相反する華奢な図体の
端々には、そばかすが密集し、
年齢不詳の無邪気な輝きを放つ。
『ポルトガル、夏の終わり』では、
世界遺産の町・シントラを歩く
彼女の姿を観ることができる。
人生の、有終の美を象徴とした
ラストシーンが美しい。
蒼穹のひろがりを映すも、
それよりも遥かに脳裏に焼きつくのは、
空をつんざく鼻尖、屹立する女性の背中、
私の大好きなイザベル・ユペールだった。
そして、日本を歩く彼女を観ても、
やはりこの思慕に変わりはない。
【映画】『ぼくのお日さま』奥山大史監督

陽だまりの美しい詩
「できた!」と心の底から喜べたのは、
「楽しそう」と言われた最後の日は、
遠い昔。まだ、社会のあてこすりを
知る前の純粋無垢な子ども時代だ。
ひとつのことにまっすぐに、
愛のまなざしを注ぐことができ、
心に体温が通い、白い呼吸が笑顔を包む。
その温もりに身をゆだねる日々に終わりが
あるとは知らずにいれたあの頃だ。
陽光で煌めく氷上に、ひとりの人がいる。
踊り、舞い、その世界は自分のために用意
されていると宣言するが如く、全身全霊で
存在し続ける。そして、その営みを見つめる
人がいる。同じ世界を共有する(共有したい
と望む)他者がいる。真に成したいことへの
情熱と集中。それを肯定してくれる空間が
あることの、なんと幸せなことか。
映画『ぼくのお日さま』の美しさは、
恋や郷愁といった誰もが抱える“想い”の
奔流を、白く眩しい雪の光のなかに、
留めることに成功した点にあるのでは
ないだろうか。
恋とダンス。この2つは
うまくシンクロするように思う。
たとえば『小さな恋のメロディ』では、
可憐な少女メロディのダンスに見惚れる
少年ダニエルが描かれる。
『Shall we ダンス?』では、中年男性の
杉山が邪な理由から社交ダンスをはじめ、
次第にダンス自体に夢中になっていくさま
が描かれる。
ダンスの身体表現が、恋の想いを伝える。
それは、冷たい言葉の羅列で想いを伝える
よりも、より一層の効果を発揮する。
とりわけ、吃音を抱えるタクヤにとって、
さくらに想いを伝えるための絶好の手段だ。
その想いの奔流がアイスダンスに表れる
のだから、美しくないわけがない。
腰に手を添え、アイスリンクを削る。
光と陰に晒されながら滑走する2人の姿は、
不感症の日々に埋没することを許した私の
心に、陽だまりの心地よさを思い出させる
美しい詩のようだった。
【映画】『時々、私は考える』レイチェル・ランバート監督

世界を象る2人
「つまらない人」――。
時折、このフレーズが頭をよぎり、
心疚しい気持ちになるときがある。
原因は明々白々。私自身が、そういう人間だと自覚しているからだ。社会から要請される役割、組織のたてつけに沿った行動が求められる状態において、この憂いは生じない。しかし、ひとたびその枠組みの外に出てしまえば、時間が続く限り、私はつまらない人間となる。
「つまらない」とは、値打ちがない、張り合いがない、という意味だそうだ。ない、ない、ないとお尻につくが、では「つまらない人」というのは、この世に存在しない人のことを指すのではないだろうか。「あ、居たんだ」「あ、来てたんだ」と言われてしまう人のことを象る言葉なのではないだろうか。
あるのは常に、死の観念が染みついた崩壊寸前の肉塊と、その光景に愉悦を覚える者たちの好奇なまなざしだけだ。
…と、考えてしまう私を、そっと優しく包み込んでくれる、『時々、私は考える』は、そんな映画だった。
物語の主人公フランは、人付き合いが苦手で、職場の同僚との交流にも消極的。
たとえば、ある社員の送別会では、はじめの挨拶に参加するだけで、談笑が始まるやいなや、そそくさとその場を立ち去ってしまう。会話を持ち掛けられても、インフォメーションの羅列が続くのみで、血の通ったコミュニケーションが成立しない。
「つまらない人」と自称する彼女の日常、新しい同僚ロバートとのつながりを通じた彼女の感情の機微を追うのが、この物語の本筋だ。
なかでも素晴らしく美しいのは、ロバートと2人で、とあるパーティに参加した一夜である。そこで彼らは、サスペンス仕立ての物語になぞらえた遊びをする。(かくれんぼと演劇と人狼ゲームがセットになったもののようだ)指定されたプレイヤーは、死体役として、そのいきさつを説明するのだが、フランが独創的な死因を語り、場を盛り上げるというシーンがある。つまらない人と自称する彼女が、しっかりと人を笑わせる。人と人とが集まり、意味も目的もないままに、それでも子どものような面持ちで、その場で作用し合う光景は、その試みは、やはり尊いものだと確信するのに相応しい感動的なシーンだった。
「つまらない人」と自称する、「つまらない人」と自覚する…世界から自分を抹消するために用意したその言葉は、他者とのダイアローグが発生するたびに、いともたやすく打ち砕かれる。
職場のみんなのためにドーナツを買うと決めたフラン。彼女のことを知りたいと願うロバート。隙間なく抱擁をする2人の存在が、世界を象る。


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