【映画】『さよなら、私のロンリー』愛による愛のための愛情表現

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映画『さよなら、私のロンリー』の感想/考察記事となります。

ある女性が”孤独”を克服する物語。やはり、それは”愛”によって果たされる。

執筆者が度々、とりあげておりますテーマ性。「愛」という多義にわたる言葉についてを語るのは野暮ですが、ご多分に漏れず「愛」を実感してきた身からして、「愛」はたしかに存在しているということは、肯定したい。

そんな想いを託せるのが今回紹介します映画『さよなら、私のロンリー』です。

ある女性が”孤独”を克服していくさまを描いた物語。
本作の見どころと、考察をお伝えする記事になればと思います。

(※若干のネタバレを含みます、おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『さよなら、私のロンリー』愛による愛のための愛情表現

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あらすじ

詐欺で生計を立てるテレサとロバートの一人娘オールド・ドリオは、幼い頃から詐欺やスリ、盗みの技術を叩き込まれてきた。彼女にとって両親は絶対的な存在であり、詐欺師としての人生を当然のように受け入れてきた。そんなある日、両親は偶然知り合った女性メラニーと意気投合し、詐欺の仲間に引き入れる。メラニーと一緒に仕事をするうち、ドリオは自身の生き方に疑問を抱くようになっていく。

映画.com

宝くじに当選した浮浪者の名前を両親から命名された本作の主人公オールド・ドリオ。
名前の決め方からして、両親の”愛”のなさがあらわれております。

両親にとって彼女は、「愛する娘」ではなく、「役に立つ娘」。
今作は、”損得”もしくは””で結ばれる人間関係についてが描かれています。
役に立つ → ”損得”のための
愛する → ”愛”のための
人間関係が結ばれるという結果は同じですが、そのきっかけや動機は”損得”と”愛”に弁別できるものではないでしょうか。そして、オールド・ドリオの両親は一貫して、彼女を”損得”でもってして、娘と認識しているんですね。なんとも切ない。

”愛”なき両親から、詐欺という”損得”の処世術を教え込まれ育ってきたオールド・ドリオ。そんな彼女の孤独にスポットがあてられたつくりになっているんですね。

以下の項目で
・オールド・ドリオの孤独について
・「学習性無力感」について
・愛について
を記していきます。

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”損得”と”愛”

物語は家族で詐欺をするシーンからはじまります。郵便局にオールド・ドリオを侵入させ、郵便物を盗ませる。そして、中身を金品と交換しようとする家族。オールド・ドリオは両親のテレサとロバートの言うことをきき、「役に立つ娘」として詐欺に加担。

物語前半では、一家のさまざまな詐欺の様子や、困窮のさま、両親の偏屈さが存分に描かれると同時に、娘オールド・ドリオが一風変わった女性であり、両親の言うことは反抗せずに従う姿が描写されます。

ここでポイントだと思うのが…
テレサとロバートが”損得”にシビアだということ。一方で、オールド・ドリオが””に関心を寄せはじめていること。

”愛”については、オールド・ドリオがお金のために、育児に関するセミナーに参加した際、「ブレスト・クロール(=母親と赤ん坊の絆の結び方)」に関心を抱いた様子を確認できるためです。また、のちのシーンでは、その内容についてをちゃんと記憶していることが明らかになります。これはオールド・ドリオが”愛”の存在に気づき始めたからでしょう。

”損得”については、テレサとロバートが詐欺を生業にしていることや、あらゆる物事を利益になるかどうかで決定している点から伺い知ることができます。何よりも娘オールド・ドリオに対する態度から見受けられます。

寝泊りのために間借りしている事務所にてオールド・ドリオがテレサに対し、母子で旅行をしようと持ち掛ける(”愛”の試み)シーンがあるのですが、素っ気ない態度をとられます。後のシーンでは、ロバートから「”母と娘の2人旅?”、家賃の足しになるのか?」と吐かれます。オールド・ドリオの”愛”が両親に無下にされたということ。”愛”よりも”損得”を優先させる両親が描かれているんですね。

また、先述した事務所のシーンは、すごく真っ暗なんですね。対比的なのがオールド・ドリオが”愛”に気づくセミナーのシーン。その場面は明るい室内が映されています。このように本作では、場面ごとに明暗を対照的に描写することで”損得”のシビヤさと、”愛”の暖かさが表現されています

オールド・ドリオの不遇が彼女を孤独たらしめている。なぜなら…
”愛”の不在 = ”孤独”の実感
だと考えるからですね。 

人は誰かから”取り替え可能な存在”として扱われた時に、たいへん悲しい思いをするものでしょう。対照的に”特別”となれた時は嬉しい。この”唯一性”の獲得が”孤独”に抗するものだと思うんですね。

すなわち…
”唯一性”の獲得 = ”愛”の実感

そして、ほとんどの場合、”唯一性”の最たる例が「家族」であるべきなのだと考えます。

そのことを前提にすれば、オールド・ドリオはたいへん不憫です。

両親からは、”愛”を無下にされ、”損得”のコマとして扱われる。「愛する娘」ではなく「役に立つ娘」としての人間関係が構築されてしまっている。”孤独”な彼女の物語。

でも、大丈夫。「愛されない」けれど、”愛”に気づき始めた彼女は「愛する」ことができるから。そして、「愛する」ことで、「愛される」から。みたいなことを以下に記していくのですが、その前に、「”孤独”」や「”損得”のコマ」についての悪影響を心理学の概念に照らして考えていきたいと思います。

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学習性無力感

オールド・ドリオは、両親に従順です。
「従順」という言葉をどう思いますでしょうか。執筆者はどちらかというとネガティブな言葉であると認識しております。職場やチームプレーなど、”損得”や”目的”のためならば、従順さ、すなわち上下関係はあってしかるべきものかも分かりません。しかし、こと”愛”の場合に関していうならば、「従順」はではなく、「対等」が必要とされるものだと考えております。

親子とは、「従順」によってではなく、「対等」に与えられている”愛”によってこそ結ばれるべき関係だと思うんですね。

これは、人と人との距離の問題であり、誰もが等しく抱くべき敬意についてです。
それらが過剰であったり、不足していたり、節度がわきまえられていなければ、いろいろと問題がおこる。以下に、いろいろな問題の一端であろう心理学の概念についてを検討していきます。

「学習性無力感」について

オールド・ドリオが陥っている心境を心理学の概念に照らして考えたいと思います。

学習性無力感
⇒ ”持続的なショックや不安の状況を自ら除去・制御できない”と学ぶことで、無気力になること

オールド・ドリオは、この学習性無力感に苛まれていると思うんですね。
両親の言うことに逆らわず、詐欺という犯罪の善悪を考える余地なく生きてきた。あらすじにも記している通り、「絶対的な存在」な両親への従順は、学習性無力感の定義にあてはまります。

また「無気力」という言葉の対になるものとして「自己効力感」があると考えます。
それぞれの意味は以下の通りです。
・無気力…何もする気がおきないこと
・自己効力感…自分の目標に向けた行動を遂行できると信じる認知

オールド・ドリオの心境を2つの概念に照らしてあらわすと
無気力 >>>>> 自己効力感
こんな感じでしょう。

学習性無力感とは、めちゃくちゃ無気力で、ぜんぜん自己効力感が湧かないない心境、といえるかと思います。

では、学習性無力感について、もう少し詳しく記します。

実験内容

「学習性無力感」を提唱したアメリカの心理学者マーティン・セリグマンが行った実験をご紹介。

〈実験①〉
約150頭の犬

ハンモックでつるし、数十回に及び、逃れることのできない電気ショックを与える
↓翌日
真ん中を低い柵で遮られた実験箱(電流領域/安全領域)にいれる

片側に電流をながし、犬の様子を観察

★結果
2/3→身動きをとらず、
   電気ショックを受け続ける
1/3→柵を飛び越える
(ハンモックの電気ショックを受けなかった統制群の犬は柵を飛び越えた)

〈実験②〉
犬をグループA、グループB、グループCに分ける

電気ショックがながれるハンモックにつるす

A ⇒ボタンを押せば停止
B ⇒逃れられない電流
C ⇒なにもしない(統制群)
↓翌日
真ん中を低い柵で遮られた実験箱(電流領域/安全領域)にいれる

片側に電流をながし、犬の様子を観察

★結果
グループBのみ柵を飛び越える傾向が低かった

なかなかショッキングな実験ですね。自分ではどうしようもない苦しみを絶えず味わうことで、その経験がほかの場面でも適用され、自らの行動で”変化”させることができる場合であっても、その働きかけをはなから断念してしまう。「自分なんてどうせ、やっても無駄」というように。犬のみならず、人間の場合もこの傾向が確認されるようです。

「学習性無力感」の悪影響

マーティン・セリグマンは回避できない苦痛な刺激に繰り返しさらされることによる悪影響があると言います。

環境に能動的に反応しようとする意欲の低下
犬と同様に人も自分次第ではコントロールすることのできない状況に悩まされると、気力を失い、外界に対して積極的に状況を変えていこうとする気持ちをもてなくなってしまう。親が支配的な家庭で育った子どもは、反抗することができない。そうなると従順になることがあたりまえになってしまい、物事を受動的に捉えてしまう傾向が育まれる。

いかがでしょう。
無気力で自己効力感に乏しいオールド・ドリオの心境・境遇を連想してしまいます。

強調しておきたいのが…
”受動的”でありすぎると、”能動性”が乏しくなってしまうということ。

そして、ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムは、ある書籍に”愛とは、能動的な営みである”というようなことを記していました。

さて、孤独なオールド・ドリオの物語に話しを戻します。孤独ではあっても、”愛”に気づき始めているオールド・ドリオの。

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愛による愛のための愛情表現

”愛”について検討するとき、
切っても切り離せないと思うのが…
受動性」と「能動性」について。

受動 → 他から作用を及ぼされること。
     受け身。
能動 → 自分の作用を他に及ぼすこと。
     働きかけ。
この概念を下地に、”愛”について私が思うのが、「愛される」ことは”愛”ではなく、「愛する」ことが”愛”であるということ。何となくですが、経験則からそう思えるんですね。エーリッヒ・フロムさんのお墨付きですし。

外発的な結果を求めてとられる行動→”損得”
内発的な過程に価値を認める行動→”愛”

自分の心の底から湧き出る衝動、やらずにはいられずに、切羽詰まった、理屈では説明のできない、狂気な沙汰とも思えるような行動、それが”愛”

「能動性」には、”創造”という概念が付きまとうものだとも考えます。

”能動的な愛情表現”を思い浮かべる時に、私の脳裡をよぎるのが、映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』のはじめのシーン。
クリント・バートンが、弓で的あてゲームをしている娘にちょっかいをだすシーンです。真剣に弓を構える娘の髪を弄び、目隠しをして妨害する微笑ましい営み。そこに些細な”創造”をみます。何を創造しているのかと言えば”愛”です。些細なクリエイティブからであっても些細な”愛”を生みだせる。その例を強烈に印象づけてくれました。

本作に登場するメラニーの台詞にも「幸せは小さな物に宿るの」とあります。

”愛”としか言いようのない衝動をよすがにとられる些細な働きかけが”愛”を創造している。

これは、愛による愛のための愛情表現だ。

ジェニーのマッサージ

物語前半では、オールド・ドリオがジェニーが営むマッサージ店に訪れるシーンがあります。

印象的なのが、施術のためにジェニーがオールド・ドリオに触れようとすると体が拒否反応を示してしまう描写。触れられることに慣れていないことが示される場面です。心理学の概念である「愛着理論」は、生後間もない赤ん坊の母との触れ合いがいかに将来の発育に影響されるかが示された理論です。人の温もりを肌で感じることが”愛”に不可欠だということ。

拒絶をしてしまうオールド・ドリオの姿は、人の温もりを否定する彼女の心情と重なります。そして、否定してしまうという事実を彼女自身が認識したがために涙を浮かべたのでしょう。

”愛”の不在が、他者との触れ合いの抵抗で示されているんですね。

エイブの傍らに

物語中盤では、本物の家族が、疑似家族を演じるという奇妙な光景があります。メラニーに言わせれば「すごく嫌な客」であるエイブ宅をオールド・ドリオ一家とメラニーが訪れるシーン。

病床に臥すエイブは”孤独”な人物です。そのため、偽者であってもいいから自分の家で、”家族”を演じて奏でられるあらゆる音を要請してきます。「すごく嫌な客」というエイブの一面を理由に、彼の家族が誰一人として家にいないという状況に彼の”孤独”を示しています。

そんなエイブとオールド・ドリオとの対峙が、このシーンの、いや本作の白眉。
本編の尺のうち丁度真ん中にあたるタイミングで、オールド・ドリオが病床に臥すエイブの傍らに居るように努め、初めて自身の人生観をエイブに語り、人生の不毛さを諭すことで「死」の怖れ(=孤独の悲しみ)を励まそうとするんですね。

”愛”なき者同士の対面。

また、このシーンで注目していただきたいのが、疑似家族(エイブにとって)を演じている時のオールド・ドリオの嬉々とした表情です。家族を演じるという行為をして家族の”愛”を少し垣間見たから生じた感動でしょう。エイブが要請した疑似家族は、オールド・ドリオが願ってやまない本物の家族のあり方と重なるんですね。

メラニーとの触れ合い

ここまで記してきました文章の暗さを蹴散らし、オールド・ドリオを太陽のように照らす存在がメラニー。

オールド・ドリオとは対照的な性格をした彼女との接触が、”愛”のはじまる兆しとなります。

彼女らの接触で美しいのが、メラニーのネイルをオールド・ドリオが外すシーン。ネイルを外すという行動が、どういった意味であるかを考えますと

”ありのまま”の肯定

ネイルで着飾ったメラニーの鎧(メラニーが着飾るわけも愛着の問題として考えられる描写(母との電話)がある)を剥がす行為は、オールド・ドリオのささやかな”愛”の実践であります。しかし、この段階では、その行為をした理由が外発的なもの(両親のため)であったことは否めません。”愛”は内発的なものの衝動によって成される行為であることを考えれば、オールド・ドリオのそれはまだ未熟。けれど、メラニーは”愛”の一端をたしかに感じた。そんなような象徴的なシーンだったように思います。

”ありのまま”を違う言葉であらわせば「自然」です。太陽の光が木々に作用するような純粋な”ありのまま”。

”愛”とは自然の発露なのであって、人の心からこみあげてくる極めて内発的で不合理な情緒の賜物。このことは強調しておきたいですね。

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愛は自然

劇中、たびたび発生するのが「地震」。
テレサとロバートが過剰に怯える描写が散見されます。地震の最中は「(ものに)触れるな、じっとして」とロバートが諭します。
・地震に怯える
・地震の最中はモノに触れてはいけない
以上、2点が表象する意味について検討します。

おさえてほしいのが
地震 = 自然、だということ。

先述しました通り、”愛”は自然なことであり、愛による愛のための愛情表現は”ありのまま”であることを肯定します。

「地震に怯える」とは、テレサとロバートの”愛”の不在をあらわしているということ。
「地震の最中はモノに触れてはいけない」とは、テレサとロバートが”愛”を拒絶しているということ。

「地震」は、”ありのまま”を肯定できない彼らが、娘オールド・ドリオを愛せないことを示す比喩なんですね。

一方、オールド・ドリオはどうか、ブレストクロールよろしく、太陽光に照らされるなかメラニーの前でダンスを披露してみせた、たいへん美しいシーンがありました。また、”自分のやりたいこと”をまとめたリストを作り、メラニーとともに遂行を試みます。物語後半にいくにつれ、”ありのまま”を少しずつ肯定し始める彼女は”愛”の何たるかを感じ、ようやく自らメラニーに触れるのです。

彼女の受動的(娘としてのオールド・ドリオ)な態度から、能動性(「愛する」オールド・ドリオ)を獲得する過程が描かれます。

”触れる”という些細な行動から、オールド・ドリオとメラニーとの間で”愛”が創造された。

私たちの愛が暗闇を照らす、さながら温もりを与える太陽の光のように。

まとめ

映画『さよなら、私のロンリー』の考察を心理学の概念もあわせてしたためました。

”愛”についてを感じることのできる素敵な作品です。母子関係という極めてセンシティブな内容は、”愛”にまつわる根源的なテーマなのではないでしょうか。

自然への回帰、私たちが自然の一部であることを自覚することから”愛”がはじまる。

”損得”が度外視された、人間の自然な姿が”愛”を通してあらわれる。無条件に生きていける。そう思えます。

・愛について考えたい人
・子育てをしている人
・孤独な人
におすすめです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

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