新作映画『シン・仮面ライダー』の感想/考察記事となります。
庵野秀明さんが指揮します「シン」シリーズのうちのひとつ『シン・仮面ライダー』。私が好きな俳優 池松壮亮さんが主演ということもあり、たいへん期待していた作品でした。
しかし、正直な感想としましては、面白くなかったです。
この記事では、私が今作がささらなかった理由についてをしたためていきます。
基本的にはおすすめのできる作品を取り上げている当ブログですが、映画”批評”を志す者として、正直な「価値づけ」は大切なことだと考えています。そのため、いわゆる酷評にあたりますので予めご留意くださいませ。
また、執筆者は原作未読。くわえて、仮面ライダーに思い入れのない人間であることもご承知おきください。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
解説
1971年放送開始の特撮テレビドラマ「仮面ライダー」を、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」「シン・ゴジラ」の庵野秀明が監督・脚本を手がけて新たに映画化。主人公・本郷猛/仮面ライダー役に「宮本から君へ」の池松壮亮、ヒロイン・緑川ルリ子役に「賭ケグルイ」シリーズの浜辺美波、一文字隼人/仮面ライダー第2号役に「ハケンアニメ!」の柄本佑を迎え、新たなオリジナル作品として描き出す。ルリ子の兄・緑川イチローを森山未來、父・緑川弘博士を塚本晋也、秘密結社SHOCKERの上級構成員・ハチオーグを西野七瀬、同じくSHOCKER上級構成員のコウモリオーグを手塚とおるがそれぞれ演じる。テレビアニメ「ヨルムンガンド」「天元突破グレンラガン」などで知られる作曲家・岩崎琢が音楽を担当。
映画.com
カーアクションからはじまり、仮面ライダーの打撃が血しぶきを散らす冒頭の戦闘シーン。観者を一気に作品の世界観に引き込みます。そこはすごくよかったんです。「おっ!思ってたのと違う、PG12なだけあるなぁ」と、大人の楽しめる活劇込みのシリアスな”ドラマ”がはじまると胸躍らせました。ここで強調したいのが私は、”ドラマ”を期待したということです。
しかし、今作はそんな”ドラマ”が著しく省かれているように思いました。どんなに役者がよい演技をしていても、どんなに壮大なバトルが演出されていても、そうなる動機や理由といったドラマな要素をしっかり描かないと、説得力や感動に欠けてしまう。
ドラマ性の欠如が、私が刺さらなかった要因だと考えるんですね。
そのことについてを以下に記します。
”コマの間”
『シン・仮面ライダー』のことを考えるさなか頭をよぎりまくった映画があります。
それが、ジェームズ・ガン監督作品『スーパー!』です。
物語は、妻を奪われた中年男性がヒーローに目覚め、ヒーロー活動をとおして妻を救出しようとするもの。
たいへんブラックユーモア満載でありながら最後には涙なしでは観れない人間味溢れるドラマに仕上がっており、監督の作家性が如実に冴えわたる作品です。「実際にヒーローが世の中にいたら」という思考実験的な作品となっていまして、昨今のMARVEL作品を筆頭に盛り上がりをみせるヒーロー映画に対し、そんな”ヒーロー”の意義を逆張りする形で、その加害性についてを外連味たっぷりに描いた作品であるといえます。
今作と『シン・仮面ライダー』を比較すると、私がささらなかった理由が伝わりやすいと思いましたので取り上げていきます。
まず、『スーパー!』が表象したものが…
些細な日常のなかにある美しいものの肯定、であると考えます。
日常に辟易とするうだつの上がらない中年男性が、妻の喪失を機に、ヒーロー活動をとおして日常を”過激”にしようと奮闘する姿が描かれますが、終盤には、そんな”過激”の残虐性や不毛さに気づき、それまでの平凡な日常にも確かにあった幸せを悟る、という結末。
これは『シン・仮面ライダー』で、本郷猛の自身が抱える”暴力性への葛藤”に通ずるテーマですね。
テーマに共通項のある2作品。ですが、『スーパー!』にはあって、『シン・仮面ライダー』にはないものが、ドラマ性なんですね。
リビー:「事件を待つのが退屈で」
映画『ヒーロー!』の台詞
フランク:「休息も必要だ」
リビー:「コミックには
退屈な時はない」
フランク:「コマの間さ」
リビー:「”コマの間”か」
これは『ヒーロー!』で、中年男性フランクと、彼のヒーロー活動に加担するサイドキック(相棒)のリビーが交わした会話です。ヒーロー活動の”非日常”に執着し、その加害性を顧みないリビーに対し、フランクがヒーローにも”日常”があるということを伝えるシーン。
『ヒーロー!』では、人体破壊描写を含めた過激な”非日常”を堪能させつつも、それとは縁のとおい”日常”も濃密に描いております。「コマの間」というのは、些細な”日常”のこと、でありまして、漫画のコマに象られるようなヒーローの”見せ場”にはならないような平凡な”日常”が確かにあるということを示します。そのうえで、”日常”すなわち「コマの間」にも確かにある些細な”愛”の数々を肯定します。
一方、『シン・仮面ライダー』は、「コマの間」が省かれているんです。
要は、”非日常”と”日常”のバランスが悪い。
仮面ライダーの”戦闘”のつるべ打ち。「コマ」にあたる部分のみを観させられている感じ。さながら格闘ゲームのアーケードモードを誰かがやっているのを傍から観ているかのような感覚になるんですね。
海辺で佇む本郷猛の涙。池松壮亮さんのいい意味で洒脱のある演技に、毎作脱帽しているのですが、今作は物語にのれていない分、池松壮亮が完全に浮いてしまっているように思え、なんだか変な感じになりました。
もっと戦闘シーンを削って、独特な専門用語も削って、「コマの間」を大切にしたドラマ性にも重きを置いていただけたら、よいのになと。
また、物語の多くの時間を戦闘描写に割いてあるのでアクション映画としては楽しめる、と言いたいところですが、そこも微妙なんです。
打撃→カット→敵が吹っ飛ぶ、打撃→カット→敵が吹っ飛ぶ、…みたいな感じで、あろうことかここも漫画の「コマ」になっちゃているんですね。シンプルに観ずらいです。仮面ライダーの体がどう動いて、相手のどこに当たったのか、がわかるようなアクション演出、カメラワークが欲しいと感じました。
ハリウッドの『アベンジャーズ』や『ジョン・ウィック』と比べるのは酷ですが、大友啓史監督作品『るろうに剣心』シリーズのような映画が日本でもつくられている現代。日本を代表するヒーローものなのであれば、それ相応のものは期待してしまうもの。予算がなくCGに頼れなかったとしても、ヒーローものにアクションは大切でしょう。
まとめ
はじめて酷評を試みてみました。仮面ライダーシリーズに思い入れのない一介の映画好きの戯言としていただければと思います。
”ドラマ性”は、「コマの間」にあると言いたかったです。要は物語の”深み”が感じられなかった。私が映画に求めているのは、アクションの快さではなく、ドラマの美しさなんだなと、改めて確認することも出来ました。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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