夢想にふけらない人がいようか、空想を描かない者があろうか
ラ・フォンテーヌというフランスの詩人が残したこの言葉から始まる今作は、ある女性の”世界”のひろがりを浅ましく、それでいて美しく描いた物語です。
ヌーヴェル・ヴァーグの一人、エリック・ロメール監督による映画『美しき結婚』を紹介します。
今作は、「喜劇と箴言」というエリック・ロメール監督が手掛けた連作のうちの2作目にあたります。
1作目『飛行士の妻』
2作目『美しき結婚』
3作目『海辺のポーリーヌ』
4作目『満月の夜』
5作目『緑の光線』
6作目『友だちの恋人』
映画『緑の光線』の記事もしたためていますので、よかったら覗いてみてください。
(あわせて読みたい記事→『緑の光線』孤独に抗する”愛”)
どの作品もザ・人間ドラマって感じでして、会話劇で展開されていくヒューマンドラマないしラブロマンスという特徴が通底しています。数人の男女の交流を、市井に生きる身近な人物として生々しく描いており、過激な描写や突飛な演出は見受けられないものの、連作の題になっているとおり箴言を弄ぶがごとくにセリフとして落とし込むことで、地味でありながらも高尚な作風を呈しているように思います。
このブログで紹介してきた映画でいえば、ハル・ハートリー監督作品『アンビリーバブル・トゥルース』や今泉力哉監督作品『窓辺にて』などが刺さる人に推せる映画かなと思います。(あわせて読みたい記事→『アンビリーバブル・トゥルース』信頼もしくは合理性、『窓辺にて』実感とフィクションの乖離)
この記事では、映画『美しき結婚』の魅力を伝えるべく、今作であらわされた物語の解像度を上げられればと思います。
(※ネタバレを含みます、おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『美しき結婚』&『緑の光線』”世界”のひろがりは止まらない)
あらすじ
妻子ある画家と不倫していた美学生サビーヌ。そんな将来のない関係に嫌気が差した彼女は、ある日突然「結婚しよう」と思い立ち画家と別れることに。好きな仕事を続けながら医者の夫と暮らす親友クラリスを理想とするサビーヌは、そのクラリスから35歳の弁護士エドモンを紹介される。知り合うなりエドモンを結婚相手と決めつけたクラリスは、自信満々かつ積極的にアプローチを仕掛けるが、多忙なエドモンとすれ違い続ける。
引用:洋画専用チャンネル ザ・シネマ ストーリーより
今作を観てまず連想した映画がありまして、それがリチャード・リンクレイター監督作品『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』です。どちらも列車が劇中に登場するということが共通しています。だからなんだって話なんですけど、妙に似ているなあって思うんですね。もしかするとリチャード・リンクレイター監督は『美しき結婚』から着想を得ていたのでは、と穿った推察をしてしまいました。
列車にて、男女が出合い、物語がはじまる。
誰かもわからない人同士があつまり、連なる線路の上を、一つの箱が駆けていく。銘々違える想いを抱え、それでも共有されたその空間に人がいるということ。たしかに出会っているということ。
どちらの映画も、列車ではじまり、列車でおわります。
それがただただ美しく思えるのは、列車という一時の時空に妙な美しさがあって、それがラブロマンスの物語と上手くマッチしているからなのかもしれません。
”世界”の肯定
この映画を観て感動したのが、主人公サビーヌの浅ましくも愛おしい実直な姿です。
物語ではサビーヌが思いを寄せる男性エドモンに積極的にアプローチ、いや引くほど強引にアプローチをします。「結婚をしたい」という願望遂行のため、彼女は脇目も振らずエドモンにアタックしまくるんですね。しかし、すれ違い続け、というか避けられ続けるのですが、一方的に電話をかけまくるサビーヌであります。傍からみれば恐ろしくもあるその姿になんだか感動できてしまう執筆者。
それがなぜかを考えると…
サビーヌが自身の”世界”を堅持していることに、ある種の尊敬があるからです。
”世界”とは、社会とか地球のそれではなく、内的世界のことです。心と書いてもいいでしょう。自分の理想とか夢とか白昼夢とか創作とか希望とか不安とか恐怖とか寂寥とか人生とかロマンとか諸々、そうしたものが連想されるそれです。
”世界”はたしかにあって、だからこそ映画を観て感動している私。けれども”現実”においてそれは脆く、譲歩の人生だった身からすれば、サビーヌが美しくみえるんですね。
友人クラリスと愛についての会話がありまして、そこでクラリスからサビーヌの姿勢にエゴイズムだと揶揄されるんですね。そのあとセリーヌが「賢明なエゴイズム」だと語ります。
エゴイズム(=利己主義)→ 自分の利益や快楽だけを考えて行動するやり方
賢明 → かしこくて道理に明るいこと、かしこくて適切なこと
利己主義という否定的なニュアンスが大きい言葉に「賢明」を加えるということ。
この台詞にサビーヌの夢想の肯定や”世界”を堅持する姿勢が伺えるんですね。利己主義と揶揄されようとも、徹底して自分の”世界”を曲げない。この子どもっぽく浅ましい姿勢を貫くサビーヌであります。
ここで効いてくるのが、映画の冒頭、またはこの記事のリード文に記しましたラ・フォンテーヌの詩。
夢想にふけらない人がいようか、空想を描かない者があろうか
誰もが抱える”世界”の貫徹の美しさが、この映画の魅力です。
”世界”と”現実”
サビーヌの”世界”では「結婚がしたい」という野望に満ちていました。くわえて芸術にも憧れを抱いています。結婚と芸術の二重の”世界”を抱える彼女。しかし、序盤から彼女はそんな”世界”とは裏腹に”現実”という境遇に苛まれています。
・画家で既婚のシモンとの不倫、
生々しい裸体
・芸術者でありかつ医師の旦那もいる
クラリスの存在
・古美術店の経営者からビジネスを諭される
などなど。
圧倒的な”現実”が物語に挿入されていることで、それらがサビーヌの”世界”の浅ましさを強調させています。
そして、何と言っても、弁護士エドモン。
彼は自身のことを「仕事中心主義」や「利己的」だと語ります。これは先述したサビーヌの利己主義と近いことを言っているんです。違うのは、「賢明なエゴイズム」が”世界”の貫徹にあるのではなく、”現実”に矛先を向けているということでしょう。
大切なのは、その”現実”はサビーヌにとってだということ。すなわち、エドモンにとっては、それが”世界”だということです。
サビーヌの”世界” VS エドモンの”世界”
という構図。
勝者はエドモンでありまして、サビーヌの”世界”が貫徹されずに終わります。それは、サビーヌの”世界”が”現実”に敗北し、エドモンの”世界”が貫徹されたということです。すなわち、「サビーヌの”世界”」と「エドモンの”世界”」の統合が失敗に終わったということです。
終わらない”世界”
”世界”の統合が拒絶によって崩れる。しかし、「統合」が崩れるのであって、サビーヌの”世界”そのものが終わるわけではないんですね。その証拠に後のシーンでは、エドモンに悪口を言い、クラリスに弁解をするサビーヌが映されます。相変わらず”世界”の貫徹を試みているのです。
先述しましたが、本作は列車にはじまり、列車でおわる映画でした。
はじめのシークエンスでは、列車にて本を片手に男性をみつめるサビーヌ、その男性もまた何かを考えている姿が映されます。終盤ではサビーヌが車窓から夢想しながら外を眺めるシーンがあり微笑みます(?!)。そしてラスト、序盤でサビーヌがまなざしをおくっていた男性と遭遇、向かいの席にお得意のエゴイズムを発揮し腰をかけるサビーヌ。チラッとお互いを見るふたり。
さながら、お互いに”世界”をあてがっているように。
美しい。
この映画は、
”世界”の共有の難しさによる”世界”の尊さ
が描かれているのではないでしょうか。
誰かもわからない人同士があつまる列車には、”世界”の持ち主が大勢いて、虚空をみつめつつ”現実”ではない”世界”を夢想する。
もし、そんな”世界”が混じり合うことができたなら、それはどんなに美しいものなのでしょうか。
まとめ
エリック・ロメール監督の連作「喜劇と箴言」のなかで推したい本作をとりあげました。
世界世界…と、くどかったと思います。ただ、ほんとうに”世界”と呼びたくなるくらいに、人間の内的なものが私は好きです。それが顕現される映画が大好きです。
これからも、”世界”を大切に生きていこうと思います。
・対話劇が好きな人
・哲学が好きな人
・同調圧力に屈し続けている人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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