【新作映画】『窓辺にて』実感とフィクションの乖離【今泉力哉監督作品】

(C)2022「窓辺にて」製作委員会

映画『窓辺にて』の感想/紹介記事です。

今泉力哉監督/脚本の作品。
やっぱりいいですね、今泉力哉監督。

身近なこと、些細なこと、意識していないと気にもとめないようなことを深く感じ、考えたら、こんなにも面白い人間味ある物語になるんだぞ、っていうのを毎回感じさせてくれます。

淡々とした会話劇が妙におもしろい、ハリウッド映画のような大爆発がなくても飽きずに観ていられるのは、人間の情緒や思想、ちょっとした行動ひとつひとつに惹かれるものがあり、非日常の世界観ではない世界の日常にも、十分に人間の豊かさを感じることができるからだ、と気づきます。

監督の過去作『サッドティー』は、やはり恋愛を描いた物語です。年齢も価値観も違う男女の恋愛感情をめぐる群像劇で、人間の痴情と狂気を晒した作品でした。

今作『窓辺にて』も、一筋縄ではいかない恋愛、それに伴う人間の真意の探求をめざす、今泉力哉監督の姿勢が健在に発揮された物語。

今作の魅力をポイントを絞って、わたしなりに記していきます。

(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『窓辺にて』実感とフィクションの乖離

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あらすじ

フリーライターの市川茂巳(稲垣吾郎)は、編集者である妻・紗衣(中村ゆり)が担当している売れっ子小説家と浮気しているのを知っている。しかし、それを妻には言えずにいた。また、浮気を知った時に自分の中に芽生えたある感情についても悩んでいた。ある日、とある文学賞の授賞式で出会った高校生作家・久保留亜(玉城ティナ)の受賞作「ラ・フランス」の内容に惹かれた市川は、久保にその小説にはモデルがいるのかと尋ねる。いるのであれば会わせてほしい、と…。

映画『窓辺にて』公式サイト Storyより

映画のほとんどが会話劇に占められた作品です。1対1、もしくは3~4人での会話、ダイアローグをとおして登場人物たちの気持ちが語られていきます。そのさまが固定カメラで映されているため、視覚的な快楽は演者の魅力に委ねられていますし、退屈に思われてしまうリスクもあるが、そこは脚本の冥利か、セリフが味わい深いからこそ観ていられる。

けれども観る人は選ぶ映画ではあると思います。会話劇の内容に惹かれる人でないと退屈さは否めないからです。

過去作『街の上で』でも、会話劇がメインでしたが、コメディ要素がまぶされていました。それが今作では、その要素をも限りなく抑えたつくりになっていると感じます。

しかし、これは意図してそうしているのかなとも思うんですね。

なぜかを考えますと…
ずばり観客には、能動性が求められた作品だったからではないかと思うんですね。観ているこちらが、会話を観て聴いて感じて考える、ということに積極的になる必要がある。

というのは、この映画のメッセージが諸々の実感、を大切にした物語だったからです。

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実感とフィクションの乖離

フィクションとは、真実を語るための嘘である

この言葉は、フランスの小説家アルベール・カミュのものです。わたしは名言を読むためにネットサーフィンをよくします。それで見つけた言葉でして、ハッ!とさせられたのを覚えています。

もうひとつ…

 私は作家として、人に実際起こったことより、彼らが自分に起こったと語ることに興味がある

この言葉は、イギリスの小説家カズオ・イシグロのものです。いつかは忘れましたが、SNSに載っていたこの言葉にたいへん共感しブックマークをしていました。

2つの言葉に共通して言えること、それは…

実感と語られること(フィクション)の乖離

ではないでしょうか。

「実感」
→物事から得る実際の感じ。実際に接したように、生き生きと感じること。
「フィクション」
→想像によって架空の筋や事柄をつくること。仮構。虚構。創作。

実際に起きたことを、そっくりそのまま語ることは不可能であるということ。その不可能性は、個人の実感を他者と共有することの難しさにつながります。今作には、そんなメッセージが込められていたように思います。

劇中にも「語ってしまうと、それは嘘になるから」というような市川の台詞があります。考えてみればそれもそうです。自分の感じたことや考えたことを、そのまま言語化することは大変な試みですし、自分が意図したことが、意図されたとおりに他者に受け取ってもらえるとも限らない。

実感を、その純度を保ったまま他者に伝えようとしても、フィクションすなわち”嘘”がまじってしまう
ということであります。

まえの記事でとりあげましたヨアキム・トリアー監督の映画『母の残像』に通底するテーマです。
(あわせて読みたい記事→【映画】『母の残像』『テルマ』感想

くわえて、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の映画『トリコロール 赤の愛』では、”嘘”がデフォルトである人間関係の切なさ怖ろしさが描かれた作品でした。
(あわせて読みたい記事→【映画】『トリコロール 赤の愛』愛は真実

今作でも、上の2つの映画でも”嘘”→孤独につながるということが描かれているように思います。嘘の実感は、自分と他者との乖離をもたらし、他者は結局”他者”であるというあたり前なことが、あたり前なこととして自覚されてしまう、ということ。それを繰り返して、あーやっぱり私は孤独だ、となる。

上記しました台詞を市川が話していることは、このことにつながっていて、市川を、”孤独はあたりまえ”と自覚し、それでも悠然と生きている人物として描くためではないでしょうか。

そして、孤独を前提に人と人との会話劇を展開するという物語をとおして、それでも価値ある”会話”、”フィクション”があるのではないのか、ということに迫る映画だったと考えます。

また、だからこそ”実感”というものがいかに大切かということも際立ちます。劇中で特徴的だったのは食事のシーンです。
・市川の義母にあたる三輪ハルが
 嬉々としてケーキを食べる
・市川と久保が同じパフェをほおばる姿
などなど。
食する、ということは実感を経験する代表例でしょう。

実感を共有することは難しいけれど、いまこの瞬間にそれを感じていることをお互いで目にすることはできる
”今を生きる”という聴き馴染みのあるフレーズを思わせますね。

この物語の登場人物それぞれが”悩み”を抱えており、登場人物同士で相談するシーンが多いです。”悩み”の実感を、いくら相談しようとも上記しました”孤独”によってなかなか解決しないですし、相談相手の心境を知る観客からしては「お前が言うか」とツッコみたくなる面白いシーンがあります。(今泉力哉監督の映画における”会話劇の妙なおもしろさ”が発揮される部分ですね)

”悩み”というものには、時間軸によって生じるものかと思います。
明日のプレゼン失敗しないかな→未来
昨日の発言で彼を悲しませていないかな→過去
といった具合に、悩んでいる人というのは時間軸が伸びてしまっている人であり、それは、”今を生きていない”状態をさします。

そして、この”悩み”というものも自分が創りだしたフィクションであるということ。
実際は、プレゼン資料は完璧。
実際は、彼には気づきを与えていた。
という可能性もあるからですね。

このように…
”悩み”に思いあぐね、自分の”フィクション”で他者を巻き込む人物が描かれる一方で、”実感”を満喫する瞬間も大切に描かれている。”フィクション”に翻弄される人物やシーンと対置的に、”実感”の美しさが映される、ということ。

この映画はそうした人間のあらゆる諸相を繊細に着実に映しとった物語でした。

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生足

語弊を恐れず記しますと、今泉力哉監督の映画はいじわるなものが多いです。映画『サッドティー』なんかがもろにそうだったんですが、人間の、特に恋愛における醜態が暴かれていく物語が多い、観た後に申し訳ない気持ちになるんですよね。

今泉力哉監督の映画を、「痴情のもつれ映画」として括ってしまいたくなるのは、わたしの観た本数が少ないからでしょうか、恋愛における痴情をこれでもかというぐらい指摘されるんですね。人間の拭いきることのできない痴情、それは”フィクション”があるからこその恥ずかしさです。「格好つけているけど、実際は…」という文章に集約されるものでありますね。

ですが、この意地悪さっていうのは正直さでもありまして、人間の真実に迫ろうとするものであります。アルベール・カミュの名言にあるとおりです。痴情を晒すことで、華々しい恋愛を貶める、ということではなくて、痴情を受け入れたうえで、それでも美しい恋愛があるのではないかと探る試みなんだと思います。

「愛を否定するな!」

同監督が脚本を務めた映画『愛なのに』におけるこの台詞からも、やはり根底に流れる人間味を表現する映画、ということを納得するのに十分な説得力があります。

では、『窓辺にて』のいじわるさは何だったかと言いますと…ずばり、「生足」であります、ひらがなで書くと「なまあし」であります。

市川の妻・紗衣
高校生作家・久保
タレント・藤沢
わたしたち観客は、それぞれの生足を拝むことになります。

なぜか、それはこの物語では、
不倫が重要な要素だからですね。

わたしたち観客が映画を観ながら、その生足を拝んでいたいと思うのは、そのまま不倫への端緒となり得ます。ある程度は「男」としての人生をおくってきた執筆者の経験からして、この煩いは拭いきれません。

仮にわたしに妻がいたとしたら、そのことを正直に話せるかを考える。難しい、きっとわたしも”嘘”を演出するでしょう。

こんな感じで、本能を理性が追いかけるという脳の構造からしても、痴情がまず生じてしまうのは避けられない事実であります。そんななか人間は恋愛を求める、今泉監督の作品が示すように、痴情を自覚してから始まるものなのでしょう。

生足を拝みたいという実感と、恋愛というフィクションの合流を、この映画では描かれていたのだと思います。

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まとめ

会話劇だけでおもしろくするのは、大変なセンスがいるものかと思いますが、今泉力哉監督はそこがすごいです。

淡々と紡がれる物語なのに、その蓄積が活かされたコミカルさ、カタルシスがあります。

・恋愛について考えたい人
・繊細な人
・オフビートな映画が好きな人
におすすめです。

それと、今作を観ておもしろいと思った方には、ぜひ『サッドティー』と『街の上で』も観てほしいです、監督の作家性を感じることのできる映画だと思います。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

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