【書籍】『14歳からの哲学』「理想」について思うこと

映画のことをよく記す当ブログですが、この記事では趣向のやや違うテーマを扱います。

なにかと申しますと、
「理想」についてです。

とても抽象度の高い言葉ですが、私はこの言葉がもつ意味にたいへん惹かれる人生をおくってきました。映画を観る=「理想」をみる、でありました。今後もそうであると確信しております。

ですが、実際この言葉についてを考えてこなかったので、今回は少しばかりその自戒をこめた文章を記していきたいと思います。

こう思ったきっかけは、書籍『14歳からの哲学』(著)池田晶子、(出)トランスビュー、を拝読したからであります。この本の数ある項目のひとつに「理想と現実」というものがありまして、気づかされることがおおいにあったんです。内容についても後述しますね。

(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください。)

スポンサーリンク

「理想」を考える

わたしは、「理想」という言葉が好きです。

自分が望むあらゆる物事の観念、と定義づければ伝わりますでしょうか。…微妙なので辞書をひきます。

考えうる最も完全なもの。最善の目的。

岩波国語辞典 第八版

「考えている」のは誰か、それは自分です。くわえて「考えうる」なので、”自分”の思考が及ぶ範囲で、ということでしょう。それを踏まえれば、理想とは、自分でつくるものであり、人によって際限も種類も違う、となります。

まず、この人によって違うという個別性に惹かれます。個別化されるということは、個人とあらゆる物事との間に距離が生じることだと考えます。それは侵害することの加害性を認めると同時に拒絶することを肯定する。こうして守られる「自分」というアイデンティティがつくりだす理想。その感じが好きなんです。

そして、「最善」という言葉。
哲学を語るには怠慢な私ですが、そのことを承知でこの言葉の意味について考えたい。「善」とは、よいこと、でありますね。よいこととは何か。これはケースバイケースでしょう。殺人がよいこととされた時代があったのですから。

ですが、もっと抽象度の高い意味においてよいことというものはあって、それは外的なラベリングなのではなくて、もっともっと自分のうちにある極めて内的な部分において了解をしているものであります。

誰であっても、「”よいこと”だな」「”わるいこと”だな」と思い感じ考えますね。そして、どちらなのかの基準が、法律や道徳とされるわけですが、それ以前にもっと根源的なところ、すなわち自分の内的世界において、どっちなのかということを検討することができる、いや、してしまう。それは外的なラベリングの集積の結果つくりあげられた脳のパターン認識であるということは現代科学が解き明かしてきたことなのだとは思います。だから、誰もが身勝手に”よいこと”と”わるいこと”の基準を持ち合わせているということであります。

すなわち、”自分にとってのよいこと”と、閉塞された感じが「理想」という言葉には秘められている。

この”身勝手”を守り抜く個人のある種の狂気性に惹かれます。

「理想」が湛えている個人の狂気が絶えず映画を、物語を、人生をつくりあげている。

美しいと思いませんか。

スポンサーリンク

「理想」とは狂気に似て

©漫画『鋼の錬金術師』 荒川弘/SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

「理想」とか「狂気」という言葉から連想してしまうのがこのお方。

ゾルフ・J・キンブリー。
私の大好きな人物です。

漫画『鋼の錬金術師』(著)荒川弘、(出)スクウェア・エニックス、に登場するキャラクターでして、ぶっ飛んだ性格をしているんですよね。

この漫画のストーリーは広大すぎるので別メディアにお任せし、キンブリーについてだけを抽象的に述べて、「理想」について考えていきます。

キンブリーは殺戮に快感を覚えるという人物なんです。文脈や絵がないとインパクトに欠けるとは思いますが、とにかくすごいんです。

「殺戮」という言葉ひとつだけとると”わるいこと”と思います。しかし、それが戦時であり、実行者が味方だったらどうなるか。おおいに頼もしいと思ってしまうものではないでしょうか。先述しましたケースバイケースとはこのことで、人を殺めることをよしとする舞台であり状況における「殺戮」は”よいこと”となりうる。

で、キンブリー自身が自分の狂気性(=理想)を自覚している点も素敵なんです。
彼の台詞にもありますし、ほかの人物に諭す場面すらあるのです。戦場での”よいこと”とは、そうした狂気的な理想すらも肯定する。「理想」は時世によって、それによる恩恵もしくは懲罰となる。

キンブリーの魅力は、その時世に自身の「理想」がそぐわなくなったとしても、「理想」を貫徹している姿勢。戦後、すなわち、キンブリーの狂気が懲罰の対象になった社会においてすらキンブリーは「理想」を手放しません。牢獄にあろうと「理想」を堅持しているのです。

この外的抑圧から、自身の内的世界を断固守る意思にロマンを感じずにはいられません。

「理想」が個人の狂気であるならば、もちろんそれはある他者に対しては黙過できない存在として認識される。「理想」と「理想」の衝突は避けられない。世界のなかで、キンブリーの意思は揺るぎなく炸裂されゆく。

調整不能、なぜなら「理想」とは、狂気的なのだから。

スポンサーリンク

「理想」と「現実」

理想を実現しようと努力することこそが現実なんだ。

書籍『14歳からの哲学』(著)池田晶子、(出)トランスビュー、p95

「理想」と「現実」は、しばしば対義語として扱われます。
理想の自分 ↔ 現実の自分
理想の社会 ↔ 現実の社会
というように。

しかし、書籍『14歳からの哲学』には、それを否定した文章が記されています。

まず、「理想」とは、”目的”である。と前提にしているのがおもしろいです。
歩く→まえに進むため
掴む→ものを移動させるため
というように「何かする」のには、”目的”が先立ち、その達成のために「する」のであると。

「理想」という言葉を大げさに考えず、”目的”と同一にして差し支えないという解釈ですね。

そして、”目的”は、「ああなればいいのに」といった思い感じ考え(=観念)を「現実」に実現しようとするために設定されるものであります。「理想」という壮大な言葉を”目的”という身近な言葉に落とし込むことで、「理想」という概念が”「現実」ばなれ”したものではなく、「現実」を変化させるための根源的なモチベーションであると提示します。

「現実」を変化させるための「理想」。

難しいけど、なんとなくわかる気がします。

スポンサーリンク

映画と「理想」

さて、わたくし執筆者は、映画が大好きなわけですが、その理由として、「理想」という言葉がおおいに関係していることも実感しております。

映画の表象するあらゆるものに対し、「美しい…」と感じるときとそうでないときとがあります。この違いが、”私の「理想」”のヒントになると思うんですね。映画を観て「美しい…」と感じる理由を分析することで、”私の「現実」”はどうあってほしいのかを知ることができるということ。

機能的なツールとしての映画は、自己内省に利用できるということです。しらけますが。

このブログでは、私がオススメしたい映画をおもに取り上げていますので、それら映画に共通したメッセージを抽出し統合することで”私の「理想」”を考えることができます。

たとえば…
『(500)日のサマー』
『ブラックフォン』
『パンチドランク・ラブ』
3作品の共通したメッセージを考えますと、抑圧された心境にある人物の意思が、あることをきっかけに開花していくさまが描かれる…という解釈ができます。

そこから、私の
「現実」は、抑圧されている
「理想」は、意思を大切にしたい
のではなかろうかと、内省できる。

映画は「理想」を破壊・創造してくれるもの、だと言いたいです。

スポンサーリンク

まとめ

書籍『14歳からの哲学』をもとに、「理想」について記してみました。

書籍には、「観念(=理想)が現実をつくる」というフレーズがあります。怠慢な私にはまだまだ理解のできないことではあります。ですが、このフレーズを鵜呑みにできるのであれば、映画が現実に与える効果は、たいへん素晴らしいものなのではないかと考えるのです。

映画とともに「理想」のための人生をおくっていきたいと思います。

”考えること”に関心のある人に、ぜひ手に取っていただきたい書籍です。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

コメント