劇場公開にくわえ、Netflixで配信中の映画『雨を告げる漂流団地』の感想/紹介記事となります。
監督は、日本アカデミー賞にノミネートされた映画『ペンギン・ハイウェイ』を手掛けた石田祐康監督。本作が2作目の長編映画作品です。
めちゃくちゃ感動しました。鑑賞中、ほとんど涙をながしながら観ていました。わたしは普段アニメーション作品はそこまで観ないのですが、『ペンギン・ハイウェイ』を観てからは石田監督の作品はチェックするようになりました。
観たものが
『フミコの告白』→ショートアニメ
『Rain town』→ショートアニメ
『陽なたのアオシグレ』
→ショートアニメ(初商業作品)
『FASTENING DAYS』→ショートアニメ
『ボレットのイス』→ショートアニメ
『ペンギン・ハイウェイ』
→長編映画(一作目)
と、すべてを観ています。(Filmarks調べ)
作品に共通しているのが、
少年少女の大奮闘!!ですね。
物語の人物をこどもに設定するのは、監督は「その時代がいちばん楽しかったから」と(Wikipediaより)。
その気持ち、すごくわかります。なんだかんだ人生でいちばん楽しかったのって小学生のころに友人とゲームして遊んでいたときだよなぁ、って思うんです。
純粋におもしろいことや、たのしいことに没入できていたから。ただ、中学生以降になってくると、キタナイことをみるし、やるしとで、どんどん淀んでいく。
だから、私が石田監督作品が好きなのかもしれません。石田監督の作品が、あの時の純粋な喜びを思い出させてくれる。そして、それが人生で清く大切なものと、再認識する。
この記事で紹介します映画『雨を告げる 漂流団地』もまさにそんな感じでした。涙なしでは観れない今作の魅力をお伝えしていければと思います。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(あわせて読みたい記事→【映画監督】特集 映画監督で選ぶおすすめ作品5選【おすすめ】)
あらすじ・解説
姉弟のように育った幼なじみの航祐と夏芽は小学6年生になり、近頃は航祐の祖父・安次が亡くなったことをきっかけに関係がギクシャクしていた。夏休みのある日、航祐はクラスメイトとともに取り壊しの進む「おばけ団地」に忍び込む。その団地はかつて航祐と夏芽が育った、思い出の家だった。航祐はそこで思いがけず夏芽と遭遇し、のっぽという名の謎の少年の存在について聞かされる。すると突然、不思議な現象が起こり、気が付くと周囲は一面の大海原になっていた。海を漂流する団地の中で、航祐たちは力を合わせてサバイバル生活を送ることになるが……。
「ペンギン・ハイウェイ」「泣きたい私は猫をかぶる」を手がけたスタジオコロリドによる長編アニメーション第3作。取り壊しの進む団地に入り込み、不思議な現象によって団地ごと海を漂流することになった小学6年生の少年少女たちが繰り広げるひと夏の別れの旅を描く。
監督はこれが長編2作目となる、「ペンギン・ハイウェイ」の石田祐康。2022年9月16日から劇場公開と同時にNetflixで配信。
引用:映画.com
主要人物は7人で
【コウスケ】
→おばけ団地に住んでいた
→サッカークラブ所属
【ナツメ】
→コウスケの幼馴染
→おばけ団地に住んでいた
→コウスケとおなじサッカークラブ所属
【レイナ】
→遊園地が好き、コウスケに好意がある
【ジュリ】
→レイナの親友
【タイシ】
→コウスケとおなじサッカークラブ所属
【ユズル】
→コウスケとおなじサッカークラブ所属
【のっぽ】
→おばけ団地に住むたっぱのある謎の少年
みんな初々しさ満載の純粋な少年少女たち。
純粋さ ⇒ オーバーリアクション
としてつながるとすれば、アニメーション表現に適したものですよね。誇張、デフォルメすることが視覚的快楽を生みだす。というのが、アニメ作品のおもしろさだと思っております。
石田監督の作品に、子どもがメインに据えられるのは、アニメの”躍動感”と相性がいい。たとえば、『陽なたのアオシグレ』の後半は無数の鳥たちと男の子が空を駆けるシーンがふんだんに盛り込まれています。このシーンで鳥にまたがるのが大人だったら、ちょっと違う、ってなります。
子どもの躍動感を描くのがうまいと同時に大切にしているというのが、石田監督作品の共通した特徴だと思います。
漂流した、過去と未来の狭間で
本作では、”漂流した団地”が舞台として描かれています。監督いわく、トップガンさながらの母艦から着想を得ているとのこと。
海に悠然と浮かぶ団地、これが象徴しているのは何だったのでしょうか。わたしの言葉でひとフレーズにしますと…
過去と未来の狭間、となります。
この物語は、漂流した団地にてサバイバル生活をする小学生の奮闘がコミカルに描かれますが、物語のドラマ性に関して言えば、過去と未来のあいだで揺れ動く人物の葛藤だと考えられます。
みなさんは、過去を断ち切って、未来を生きることができていますでしょうか。わたしは、まるでダメで、暇さえあれば過去が甦ります、身動きがとれなくなるんですね。「なんであの時あんなことしたんだ」「うわっキモ」「最低だ、俺」ってなる。
人間の脳はそもそも、幸福になるためにできてはおらず、不幸を避けるためにできている、といいます。だから、”思い出”も幸福だったものよりも、不幸だったそれをよく記憶し、想起させる。
繊細な気質なわたしは尚のこと。過去を切り捨て未来に没入できる、ある種の鈍感力が羨ましいのです。
そして、そんなわたしと、この物語のナツメが重なります。
ナツメも過去を引きずり、身動きの取れなくなった存在として生きているんですね。彼女を取り巻く”漂流した団地”は、過去と未来の狭間で身動きの取れなくなったナツメの心的状況。その舞台に、ほかの人物が巻き込まれているという構造です。
”漂流団地”は、鴨の宮団地(通称:おばけ団地)であり、コウスケとナツメの昔の家です。そこが舞台になるのは、ナツメが過去を切り離すことができないからでしょう。
”切り離す”とは、忘却を意味します。
忘れられないもの、忘れたくないもの。いずれにしても過去にとらわれ、身動きがとれない、もしくは、”演技”をしている。人は自分の苦しみ、悲しみを封じるために、悟られないために、自らを繕うものだと思います。ナツメの”演技”をレイナに揶揄され、コウスケに見抜かれます。
自らを偽って生きる人生に幸せはありえないと思うんです。
偽る理由は過去にある
辛く悲しい過去の傷、トラウマ、そうした過去を切り離せないほどの甚大な記憶として刻まれてしまった。
まえの記事で、イザベル・コイシェ監督映画『あなたになら言える秘密のこと』をとりあげました。
(あわせて読みたい記事→『あなたになら言える秘密のこと』『マイ・ブックショップ』威厳と繊細さ)
逃れようのない悲しみはある、切り離すのにはこの記憶は拡がりすぎた、そんな女性が描かれます。
未来が、過去に侵される
ナツメにとっての悪い過去、トラウマな記憶については、ネタバレ回避のため記述を避けますが、とりあえず、悲しみを抱えていて、過去にこだわってしまっているんですね。
ただ、大切なこととして、過去のすべてが悪い思い出だったわけではない、ということです。先述しました、人間の脳のしくみのとおり、悪い過去を想起しやすいものだけれど”良い思い出”も確かにあったということも絶対に忘れてはならない。
悪い思い出 ⇒ 絶望
(=これから先おなじ苦しみが続くという想い)
良い思い出 ⇒ 希望
(=絶望を克服できるという想い)
とするならば、記憶は絶望に占められやすい。しかし、人は希望も抱ける、なぜなら過去に希望”も”あったことを知っているから。
絶望と希望が共存する過去にて、ナツメと団地は漂流している。
ときにそこでは、希望が絶望に侵され、”忘却”という名の海の底に沈むこともある。どちらも抱いて生きることは難しいことだから。
けれども、ナツメはひとりじゃないんですね。コウスケ、レイナ、ジュリ、タイシ、ユズル、のっぽがいるんです。彼らに、未来をみる。
君が海に沈もうものなら、
私の手をたずさえよう。
君が海に沈もうものなら、
どこまでも泳いでみせよう。
わたしたちは、生きているんだから。
まとめ
これまでの記事以上にわたしの心象がメインな文章になってしまいました。それだけ、この映画に思うことがあったからですね。
記しきれなかったことがたくさんあります。”場所”や”物”についてや、ナツメ以外の人物の想いとかですね。ぜーんぶ素敵なので、鑑賞して確かめていただければと思います。
レイナの”やしま遊園地”は落涙必須です。
・ジュブナイルものが好きな人
・トラウマを抱えている人
・希望を抱きたい人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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