アキ・カウリスマキ監督の映画『街のあかり』の感想/紹介記事となります。
フィンランドの映画監督で、日本の映画監督の小津安二郎を敬愛しているようです。それもあってか、2017年に同監督により制作された映画『希望のかなた』では、和食料理店を物語上にいれこんでいて、シュールな感じがとても面白かったです。
そんな日本に親しみのある監督がてがけた『街のあかり』は、2006年制作のヒューマンドラマ。
夢みがちな男が努力をするも、社会の不条理のなか、孤独をことごとく体験する。
…という物語になっています。
テーマは”孤独”です。
人間の普遍的な心理状態であり、社会の大きな問題を、ひとりの男の人生から垣間見ます。
しかし…
この映画のタイトルが示すように、そんな人生にも”あかり”はある、という確信に満ちた映画でもありました。
その”あかり”についてを、記していければと思います。
(※若干のネタバレを含みます、おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『街のあかり』紹介 孤独な男の瞳)
あらすじ・解説
フィンランドの名匠アキ・カウリスマキによる“敗者3部作”の最終章となる人間ドラマ。ヘルシンキの街の片隅で生きる孤独な男が、人を愛することによって人間性を回復していくさまを描き出す。恋人も友人もいない夜警員コイスティネンは、カフェで声を掛けてきた美しい女ミルヤに恋をする。しかし彼女はマフィアが送り込んだ情婦だった。強盗の罪を擦りつけられたコイスティネンは逮捕され、1年間の服役を言い渡されてしまう。
引用:映画.com
コイスティネン → 主人公、警備員
アイラ → ソーセージ店の女性
リンドロストロン → マフィアのボス
ミルヤ → リンドロストロンの愛人
この4人のメインキャラクターとして物語が展開していきます。
あらすじにもあります通り、コイスティネンはめっちゃ不遇に見舞われます。ミルヤとリンドロストロンがひどい、徹底的にコイスティネンを陥れてくるんですよね。一方、コイスティネン行きつけのソーセージ店を営むアイラは、絶えずコイスティネンに寄り添う。
このわかりやすい人物描写は…
”強者”と”弱者”のちがいを際立たせています。
圧倒的に弱者であるコイスティネンは強者を目指し努力はしているものの、うだつがあがらない毎日に孤独感をおぼえている状態です。
強者と弱者、それぞれがもつものは何なのか。考えていきます。
視線のさきに
今作では、強者と弱者が強調されています。
金、権力、悪意をもつ者 ⇒ 強者
〃 もたぬ者 ⇒ 弱者
とわかりやすく描かれていました。
それで、わたしがこの映画のポイントだと思うのが”視線”です。
物語のなかで、人が人におくる視線が、度々描かれています。
・強者から弱者に向けられた視線
・弱者から強者に向けられた視線
・弱者同士で交錯する視線
といった具合です。
たとえば…
通りを歩く3人の男が文学者について語っており、コイスティネンがその3人をみつめるシーンがあります。このときにコイスティネンがなにを思っているのかを考えてみると→あきれた視線だと考えます。「文学のはなしをして何になるんだ」といった感じです。コイスティネンは、”理想”ではなく、”現実”を生きることに価値をおく人物と読み取れます。そのあとのシーンでも、映画の上映中、映画を観ずにミルヤをみつめるコイスティネンが描かれています。
ほかにも…
リンドロストロンが強盗のために、警備員を利用しようと画策し、その対象としてコイスティネンをじっくりとみつめるシーンがあります。強者であるリンドロストロンが、弱者を利用しようとしている、という感じでしょう。
こんな感じで、この映画では”視線”をおくる人物を多く描くことで、その人物はなにを思い、意図して、その対象をみつめているのか、を考えさせているんだと思います。
そして、その視線をおくる人物とその対象との関係性。すなわち、強者と弱者の立場にある人物の心情を読み取ることで、2つの”視線”が浮かび上がります。
それは…
”利用のための視線” or ”愛のための視線”
利用のための視線
→合理性を意図した利己的なもの
愛のための視線
→合理性のそとにある衝動によるもの
と整理ができます。
リンドロストロンとミルヤが、コイスティネンに向けた視線は利用のためであります。このふたりに限らず、この視線が社会にはびこっていることをこの物語で示されています。警備会社の同僚、警察官、裁判官、スーパーマーケットの店員、などなど。社会全体がこの”利用のための視線”を交錯させているのです。
コイスティネンも例にもれません。彼もまた残酷な法則でできた社会の一員であろうと望んでいるんですね。ミルヤを恋人にしたい、起業したいといった彼の努力は、強者への希求としてあらわれているからですね。
そして、その根本的な原因が孤独なのだと思います。
孤独を癒すため、誰もが強者に成ろうと望む街。その街でコイスティネンは不遇に見舞われる。徹底的にです。
ただ、大切なのは、この街にも”あかり”があるということです。
”あかり” = 愛のための視線
となりますね。
アイラがコイスティネンに向けていた視線であり、コイスティネンが放置された犬に向けていた視線であります。
これら視線は愛や希望と形容できます。
物語では悲惨な状態にありながら希望を捨てないコイスティネンが描かれています。相手にされていなくとも傷つくコイスティネンを介抱するアイラの愛が描かれています。
裁判所で判決を言い渡されるシーンでは、コイスティネンの青い瞳がクローズアップされます。その瞳に希望を確信することができます。釈放後、アイラがコイスティネンに会って会話するシーンでは。どんな目に遭おうとも、希望を捨てないコイスティネンの姿をみます。
ほんとうに美しい。
そして、一番美しいのがラストシーンです。希望に満ち満ちていたコイスティネンの瞳がとじるとき。それでもアイラの愛はコイスティネンをみつめるのです。
”善き強者”もいるのでしょう。
そこに至る人は、希望と愛に包まれている
そんなことを思わせる素敵な物語でした。
まとめ
人間の営みすべては、淋しさを原動力にしているのではないかと思います。孤独をどうにかするために人は生きている、そんなことを常々感じるんですね。
この映画で描かれているのは、まさにそうしたことで、一個人の人生から社会全体の構造を示した映画だと思います。
徹底的にひどい社会をうつしつつ、個人の愛や希望を際立たせることで、「それでも生きていこう」という力強いメッセージのある映画でした。
・人生になんだかなぁと感じている人
・勇気をもらいたい人
・愛について考えたい人
・孤独について考えたい人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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