ヴィム・ヴェンダース。
ドイツの映画監督です。
『パリ、テキサス』をはじめて鑑賞したときの安らぎは、まさに極上の映画体験でした。
人の心をやさしく描いた作品がおおいように思います。
今回は、ヴィム・ヴェンダース監督のロードムービー三部作の1作目『都会のアリス』をとりあげます。
”存在”についての映画という印象をうけております。
渋い青年(フィリップ)と生意気な少女(アリス)2人の目的地にたどり着くまでの過程のなかで、まじわされる会話の端々に、彼らの”存在”をみる。そして、存在することそのものが愛おしいことなのだということに気づく。
映画を観終わる頃には、いま在る”わたし”という存在も愛おしくなりますよ。
と、キザな前置きをしてから、以下、感想記事となります。
よろしくお願い致しますー。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
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あらすじ・解説
ヴィム・ヴェンダース監督が、ひょんなことから一緒に旅することになった青年と少女の交流をモノクロ映像でつづったロードムービー。ドイツ人の青年フィリップは旅行記を書くためアメリカを旅していたが、執筆に行き詰まり帰国することに。空港で足止めをくらった彼は、同じくドイツへ帰国しようとしていた女性リザと9歳の娘アリスに出会う。リザはフィリップに一方的にアリスを託し、行方をくらませてしまう。仕方なくアリスを連れてアムステルダムへ飛んだフィリップは、アリスの記憶を頼りに彼女の祖母の家を探す旅に出る。「まわり道」「さすらい」と続く、ヴェンダース監督&リュディガー・フォーグラー主演による「ロードムービー3部作」の第1作。
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冒頭、フィリップがひとりで外を歩いていたり、カフェやホテルでの様子が映されます。
「執筆に行き詰まり」とあるように、悩める青年感がそこはかとなく漂っているんです。
そこからアリスたちに会ったあたりから、徐々に明るい会話劇になっていき、フィリップの心境が…
孤独で物寂しい→うっとおしいけど楽しい
みたいな感じになります。
大人と子どもの二人旅っていいですよね。同監督の『パリ、テキサス』もそうでしたし、最近の映画だとマイクミルズ監督の『カモン カモン』。ほかにも、スターウォーズの『マンダロリアン』やX-MENの『LOGAN ローガン』などが思い出せます。
不器用な大人 & こどもらしい子ども
っていう関係性をあつかう作品は良作が多いのかもしれません(自分が好きなだけか)。
例にもれず『都会のアリス』もそこにカテゴライズができます。
フィリップとアリスの旅にどんなメッセージがあったのでしょうか。
存在を確かめ合う2人
わたしとあなた、存在をたしかめ合う
わたしは”存在”についての映画だったなと思いました。
あらすじ・解説のとこでも書いたのですが、フィリップが一人のときとアリスと出会ってからとでは、あたりまえですが会話が多いんですよね。
この会話量の変化がポイントだと思っていまして、純粋に会話のなかにある面白さが増加するって意味もありますが、もっとテーマ的な部分に影響していると思うんです。
で、そのテーマっていうのが”存在”についてです。どういうことかというと…
一人でいれば、話してもそれは独り言です。
二人でいれば、話すと会話になります。
この”会話”というものをとおしてフィリップとアリスは、お互いに、お互いが存在しているということを実感していると思うんです。
つまり、フィリップとアリスの会話 ⇒ 二人の”存在”の確認作業となります。
劇中、二人が海に浮かびながら、お互いのことを罵り合うシーンがあります。
フィリップ「アホ女」「わがまま女」
アリス「まぬけ」「オタンコナス」
などですね。
このシーンは前半に感情的にいがみあっていた時と対比した愛あるディスりになっており、2人がお互いを知り合い以上の存在として距離が近づいていることを示した美しいシーンです。
言語学者のソシュールという人が、存在について言っていことを簡単にまとめたあるライトな哲学の本があります。そこには、「言語とは、区別のシステム」とありました。人は、区別する価値のあるものを言語化するって言っているんだそう。
それを考えると、フィリップとアリスの罵り合いが美しく思えてきます。
また、会話以外のモチーフとして写真があげられます。フィリップは仕事である記事執筆に行き詰っており、写真ばかりを撮っている。そのことを仕事関係者にとがめられるシーンがありました。
フィリップはなぜ写真ばかり撮っているんでしょうか。
フィリップの発言に「見たものを、映像や記号に昇華させた」とあります。これは「見たものそのもので美しい、十分じゃないか」ってことを言いたいんじゃないかなと。
必要とされているものが…
「写真」→ありのまま
「記事」→フィリップの主観のある文章
となります。
写真は事象をありのままに残すことのできるものです。フィリップは写真を用いることで、”存在”そのものの肯定をしているんじゃないかなと。だから車は売るけど、カメラは手放さないんですね。
また、写真には存在して”いた”という証拠としてのはたらきもありますね。
まとめると…
会話 → 存在の確認作業
写真 → 存在の証拠
といった感じですね。
フィリップとアリスは会話をすることで、存在を確かめ合っている。また、景色や建物ばかりを写真にしていたフィリップ。アリスが、そんな彼を被写体にカメラを撮るのは、フィリップを世界に存在させるためだった。
お互いが存在している、存在していたということを絶えず感じることのよろこびを表現した映画であり、これからもそうしていこうと鼓舞する力強い映画であったなと思いましたー。
自分が存在しているという確認。
そこにある安心とおどろき、よろこび。
会話をまじわすことで、写真にかたどることで、フィリップとアリスは、それらのことを実感していたんでしょうねー。
フィリップとアリスが証明写真機(?)で写真を撮るシーンが最高に美しかった。
まとめ
存在ソンザイそんざ…ばかり書いて申し訳ありませんでした。
「あたりまえだろ」ってツッコまれそうですね。そんな「あたりまえ」なことでも、美しく表現できるっていうのが映画のすごいところ。
ヴィム・ヴェンダース監督の映画はいつもわたしの琴線にふれます。これからもずっと観ていこうと思います。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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