【映画】『ハッピーエンド』人間たちの隔絶【ミヒャエル・ハネケ監督作品】

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映画『ハッピーエンド』の感想/紹介記事となります。

オーストリアのミヒャエル・ハネケ監督が手掛けた作品です。過去作に『ファニーゲーム』『ピアニスト』『愛、アムール』などがります。

わたしの好きな映画監督で、さめた視線で人間を明らかにする、みたいな感じの作品が多いように思います。
『ファニーゲーム』 → 人間の不条理
『ピアニスト』→ 愛の限界
『愛、アムルール』 → 愛の限界
といった具合に、人間の内面を深く深く覗き込もうとする監督の姿勢を数多の作品から感じます。

悲観的な物語が多く、いわゆる映画的から遠のいた現実的な人間の姿を映しだしていて、それゆえに、本物に近い人間の醜態を目の当たりにすることができる。

自戒と後悔をもってしてでないと、ミヒャエル・ハネケ監督の映画とは向き合えないように思います。

今回はミヒャエル・ハネケ監督の一番新しい作品『ハッピーエンド』をとりあげます。親戚と観ることをおすすめできない今作には、血がつながっていようとも、人間のあいだにある厳然たる隔絶が描かれています。

(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『ハッピーエンド』人間たちの隔絶)

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あらすじ・解説

「白いリボン」「愛、アムール」の2作連続でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した名匠ミヒャエル・ハネケが、難民が多く暮らすフランス北部の町カレーを舞台に、不倫や裏切りなどそれぞれに秘密を抱えた3世代の家族の姿を描いた人間ドラマ。建設会社を経営し、豪華な邸宅に3世代で暮らすロラン一家。家長のジョルジュは高齢のためすでに引退し、娘のアンヌが家業を継いでいた。アンヌの弟で医者のトマには、別れた前妻との子で13歳になる娘エヴがおり、両親の離婚のために離れて暮らしていたエヴは、ある事件をきっかけにトマと一緒に暮らすためカレーの屋敷に呼び寄せられる。それぞれが秘密を抱え、互いに無関心な家族の中で、85歳のジョルジュは13歳のエヴにある秘密を打ち明けるが……。

引用:映画.com
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人間の隔絶

この物語の描いているものが何だったかを1フレーズにまとめると…

隔絶された人間同士の影響、人生の制限

となります。

隔絶 → へだたり、掛け離れること

今作でメインで描かれたのは裕福なロラン一家です。血でつながった者同士であれ、契約で結ばれている者同士であれ、”家族”という関係性で結ばれている。この”家族”を物語の中心に据え置き、物語を展開させていきながら、隔絶が表現されています。

たとえば…
叔母アンヌに対しエヴが愛想笑いを浮かべる場面があります。しかし、この前のシーンでは、車内で父トマの隣でエヴが涙をながしているのです。悲しい気分から一転させて、その場では、笑わなければ”ならない” ⇒ アンヌからの同調圧力、エヴの演技、というシーンだったと考えられます。

ここにエヴとアンヌの隔絶が読み取れます。エヴの心情としては「(落ち込んでいるけど、とりあえず笑っておこう)」っていう感じで、何も知りもしない叔母アンヌとの距離をうまく表現されているように思うんですね。

この”人に嘘をつく”という行為は、隔絶を実感する最たるものですよね。後のシーンに嘘を見透かされるトマの滑稽さなんかも描かれていました。

まえの記事でとりあげましたクシシュトフ・キェシロフスキ監督の『トリコロール 赤の愛』では、人の真意は恐ろしいということを描いた映画になっていました。嘘をつくことができるから、絶えず隔絶の恐怖に晒されている。それでも人は”寛容だ”というメッセージが示されます。
(あわせて読みたい記事→『トリコロール 赤の愛』愛は真実

今作はどうだったか…
さすがミヒャエル・ハネケ監督ってところでしょうか、救いようがないんですよね、ただ諦観している。

また、劇中で印象的なのが…
○○越しの人間というシチュエーション。
・スマホで実母を撮影するエヴ
・監視モニターで映された瓦解する工事現場
・TVで工事事故の報道を見るローレンス(アンヌの恋人)
・病床に臥す実母をガラス越しから見つめるエヴ
・スマホでジョルジュを撮影するエヴ
・PCのまえにいるであろうトマ
・Youtubeを見るエヴ
・ジョルジュが見つめる写真

この”越し”が「隔絶」の比喩です。

モニターやガラスが人間の隔絶のために機能しているということ。要はそこに映るものすべてが他人事ということです。
もちろん…
・映画を観るわたしたち
も同様です。

まえの記事でヨアキム・トリアー監督の『母の残像』という映画を紹介しました。この映画とも共通のテーマ性を感じます、すなわち、人間の隔絶ですね。”家族”が物語の中軸になっていること、イザベル・ユペール出演というのも共通点です。
(あわせて読みたい記事→【映画】『母の残像』『テルマ』感想【ヨアキム・トリアー監督作品】

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人間の影響

つぎに記したいのが影響についてです。

隔絶されているとはいえ、おおいに人は人に良くも悪くも影響を与えてしまうということ。そして、この物語では悪くものほうを存分に描いているんですね。

劇中では、ある人間が呼びかけ、静止させ、指示をする場面が散見されます。
・使用人を静止させるアンヌ
・アンヌとピエール(アンヌの息子)の
 口喧嘩を辞めるよう指示するジョルジュ
・エヴを呼び止めるトマ
・トマとピエールに連れまわされるエヴ
などなど
隔絶されているはずの人間同士がお互いに影響しあっている私生活が描かれます。

そして、それゆえに
人生に制限がかかってしまう。
・エヴが転校を余儀なくされたこと
・トマがチャットをできなくなったこと
・工事事故の帰責のゆくえ
・使用人、黒人という立場

一方、ジョルジュが”影響”を欲している時、頼みごとをするが相手にされない、という場面があります。

隔絶されているはずの人間が影響し合うことによる人生の制限
誰かから、何かから、支配されている感覚が拭えない。孤独なはずの私がどうして!?って感じです。

この外面と内面の不一致から生じるズレ、が全編とおして見受けられ、そして、人の内面なんか、誰も気にしてくれないんだという無情に襲われます。

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エヴとジョルジュ

この無情を諦念し諦観するのがジョルジュと孫娘エヴであります。

わたしはこの2人にとてつもない親近感がわくんですよね。人に関心が無いわけではない、ただ関与に消極的なだけ、という感じ、すごく共感する。

孤独を受け入れた存在です。
・入院中の実母との面会をすぐ済ませるエヴ
・過行く歩行者と自動車のなか、
 なにかを訴えようとするも
 応えてもらえないジョルジュ
人間の隔絶をおおいに実感している。

ネタバレはしないので、詳しくは記しませんが、ふたりは””というものを身近に感じる経験をしています。なるほど、やはり孤独のゆきつく先は、死か、と思う次第であります。

終盤のふたりの会話場面が白眉で、このシーンで巧妙な演出がなされていると思います。人間の隔絶や無情を受け入れているという共通理解を”座る”という行為であらわしているからです。

事故を起こし車イスに座っているジョルジュ(”死”の経由)が、立っているエヴに対し…
「立ったままでも、座ってもいい」
と言います。
エヴに選択権を与えているのは、上記しました”人生の制限”に比して良心的です。

そして、座るエヴ。
ジョルジュとエヴが座って会話する、というなんてこともない場面に感動します。

なぜかと言いますと、隔絶されている人間が対等な関係性になっている唯一のシーン(多分)だからです。ふたりを対等にさすのは、上述しました”死”や無情な人間の諦観を共通理解しているからであります。

老人と少女の諦観の感じがすごくいい、達観しているなぁと。微かに”関係性”がめばえているようにみえます。

ただ…

死さえも凌駕してしまうほどの隔絶

をこの映画は示していました。

この物語の顛末を、ぜひ観届けていただけたらと思います。

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まとめ

今作もミヒャエル・ハネケ節が炸裂した映画となっておりました。
悲観的で、大変悲観的で…。
「せっかく映画撮ってるんだからちょっとは…」という提案もすぐさま一蹴されるんだろうなという感じ。

ミヒャエル・ハネケ監督作品のそこが好き。

・ペシミストの人
・人間関係に疲れている人
・家族が嫌いな人
・家族が好きな人
におすすめです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

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