【映画】『四月物語』実現される私の物語【岩井俊二監督作品】

©1998 Rockwell Eyes

映画『四月物語』の感想/紹介記事です。

1998年に制作された岩井俊二監督・脚本の作品。わたしは岩井俊二監督の映画はどれも好きなんですが、今作が一番好きです。

こうして記事書いてて思ったんですが、岩井監督ではなくフルネームで岩井俊二監督と記したいのは「岩井俊二」という存在の、わたしにとっての特別さからきているのかな、と気づきます。

だいたいの作品を鑑賞していて思うのが…
「”怖い”映画」と、「”美しい”映画」に
分けられるということ。

「”怖い”映画」
→『リリイ・シュシュのすべて』
→『リップヴァンウィンクルの花嫁』
「”美しい”映画」
→『Love Letter』
→『ラストレター』
といった具合です。

この記事で紹介します『四月物語』は”美しい”映画となります。

そして、”怖い””美しい”どちらの映画であろうと共通して感じるのが”懐かしさ”です。岩井俊二監督作品には、いつも「あの感じ」「あの匂い」が漂っている。それは監督自身が「過去」というものへの愛に溢れた人だからなのかと妄想します。

そうであったなら、やっぱりわたしは岩井俊二監督作品が大好きなんだなと思うのです。

(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)

(あわせて読みたい記事→【映画監督】特集 映画監督で選ぶおすすめ作品5選【おすすめ】

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あらすじ・解説

「Love Letter」「スワロウテイル」の岩井俊二が、本作が映画初主演となる松たか子演じる女子大生の淡い恋心を描いた青春ドラマ。北海道の親元を離れ、大学に通うために上京した卯月。新しい人々との出会いなど小さな冒険の中で、卯月は東京の生活に少しずつ慣れていく。そんな彼女が選んだ「武蔵野」という上京先は、彼女にとって特別なものだった。

引用:映画.com + 執筆者の修正・加筆
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唯一の物語

「人生は選択の連続」というようなフレーズをよく聞きます。
・恋人をつくるとき
・友人をつくるとき
・学校を選ぶとき
・仕事を選ぶとき
常にわたしたちは選択に迫られた存在、と前提にしたうえでのフレーズだと思います。

選択には、基準が必要です。わるい選択ではなく、よい選択をしたい…そう思うのは当然のこと。

なぜなら、人生は有限だから。

限られた時間をより充実したものにしたい、だから何がしかの基準に沿った選択をする。これは誰でも優先度があるということを意味しています。そのことは、それゆえの無慈悲を孕んでいる。

誰もが”特別な存在”となれる一方で、誰もが”どうでもいい存在”に成り果てる危険性を帯びているからです。

冒頭のシーンでは駅で卯月が家族に見送られているなか、知人の駅員が割って入ってきています。
卯月にとっての家族
→優先度が高い(”特別な存在”に近い)
卯月にとっての駅員
→優先度が低い(”どうでもいい存在”に近い)
「家族との別れ」という特別なシチュエーションにおいて、駅員がノイズになっているんですね。

ほかのシーンでは卯月の部屋で、カレーを食べる(招かれた)おとなりさんにかまわず、家族と電話するシーンがあったりします。ここのシーン観ていてだいぶ残酷です。

こんな感じで、人物を”特別な存在”と”どうでもいい存在”とでえり分けて映すことで、人生における選択に伴う無慈悲と”特別”を描いた映画といえます。

”特別”をほかの言葉にすると唯一性になるかと思います。人生には優先度がある、その”特別”の最上が”唯一なもの”ということですね。

まえの記事でとりあげました映画『秒速5センチメートル』では、この唯一性が時間の変遷によって風化していく儚さが描かれていました。
(あわせて読みたい記事→【映画】『秒速5センチメートル』風化する愛【新海誠監督作品】
今作『四月物語』では、唯一性のはじまりを描いているように思います。

『秒速5センチメートル』⇒ 唯一性の儚さ
『四月物語』⇒ 唯一性の美しさ

唯一性に伴う儚さを描きつつも、美しさにウェイトを置いている。それがリード文で今作を”美しい”映画とした理由です。

卯月は自己主張が弱く、周りからの影響を受けやすい繊細な人物として描かれているように思います。
たとえば…
・自分の引っ越しの主導権を引っ越しの従業員に握られてしまっている
・大学での自己紹介がうまくいかず、周りから若干いじられる
・サークルを何にするかを他者に委ねている
といった具合です。

ただ、これは卯月が無気力なのではなく、たんに”どうでもいい”ことはどうでもいいとしているだけです。

以上、この物語では…
選択による無慈悲さ
ある選択は”どうでもいい”とする卯月の行動
が徹底的に描かれます。

これは、あることを際立たせる布石としての機能なのだと思います。あることというのは、卯月最大の唯一性への意思です。

(※以降の文章では、ネタバレに関わるものが含まれますのでご注意ください)

卯月が上京先を「武蔵野」にしたこと、「武蔵野」にある大学を選んだこと。それは卯月にとって「武蔵野」が”特別なもの”だったからです。

ここでのキーパーソンが山崎となりますね。卯月の高校時代の先輩の山崎は「武蔵野」の大学に通い、「武蔵野」の書店で働いている。卯月はそのことを知り、「武蔵野」へ。

なぜか。
岩井俊二監督作品を観ている人ならもうお分かりでしょう、恋愛感情です。

卯月にとって山崎は、
その意味で唯一の存在だった。

さきほど記しました布石は、卯月の山崎に会いたいという強い意思を強調させるためだったということ。”どうでもいい”ことにはどうでもいい態度をとっていた卯月。そんな卯月の愛を選ぶという意思のあらわれが、山崎の働く「武蔵野」の書店に赴くということだった。紛れもない卯月にとっての唯一性、それが山崎への想いだということ。

では、その「意思」は何によるものなのか。フランスの哲学者、精神科医であるジャック・ラカンの思想を解説した書籍の文章を引用します。

私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからです。私は「これから起きて欲しいこと」、つまり他者による承認をめざして、過去を思い出すのです。私たちは未来に向けて過去を思い出すのです。

引用:書籍『寝ながら学べる構造主義』(著)内田樹、(出)文春新書、p184~185

対話において語られる「過去」について人が思い出す「過去」というものは、過去に起きた事実そのままを想起しているのではなく、「未来」に向けて自分の欲望などを含めたうえでの物語を都合よく「過去」として思い出している。
…ということかと思います。(※おおいに執筆者の主観、解釈がまじっています、ご容赦ください)

このことを前提に、卯月の意思についてを考えてみると…
卯月の意思というのは過去の事実(山崎に想いを寄せていた)や「過去」(=こうあって欲しいという卯月の物語)によっていると言えるのではないでしょうか。

「武蔵野」の書店にて、卯月が山崎に向けるまなざしは、この卯月の「物語」を実現させたい。という想いがのっかている、ちょー美しいですね。

そして、山崎に思い出される。つまり、卯月の「物語」の実現があったのです。

卯月の意思が報われた瞬間を終盤に描き、それまで”どうでもいい”をかましていた卯月の唯一性を山崎への愛に結実させている。めっちゃロマンチック。

映画『四月物語』は、
卯月の意思という唯一性の美しさ
を描いた物語なのだと思います。

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まとめ

岩井俊二監督作品が纏う”懐かしさ”がすごい。どうしてかを言語化することは、到底できるとは思えないけれど、岩井俊二の魔法はたしかにあって、映画好きな私たちを歓迎してくれている。ありがとう。

・ロマンチックな映画がみたい人
・意思の大切さを知りたい人
・恋愛映画が好きな人
におすすめです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

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