ヨアキム・トリアー監督最新作『わたしは最悪。』をとりあげます。
たいへん楽しみにしていた映画でして、公開当日のはじめの回で鑑賞してまいりました。いやー、やっぱり最高でした、最悪にして最高でしたよ。
以前に同監督の映画『母の残像』『テルマ』の感想/紹介記事をしたためています。
あわせて読んでいただけるとうれしいです。
→【映画 ヨアキム・トリアー監督作品】『母の残像』『テルマ』感想
この記事で監督の作品の特徴を、ヒューマンドラマに他ジャンルをまぶした感じと書いています。それにくらべ今作は、ストレートにラブロマンスでしたね。
ただ、人物を”さめた視線”で描いている点は共通しているかと思います。それゆえに、そこはかとなく儚さが際立ちます。
『わたしは最悪。』何が最悪なのか。
わたしの所感とともに紹介していきますー。
(※おおいに執筆者の主観がまじっていることをご留意ください)
(音声はこちら→『わたしは最悪。』変化するわたし、最悪?)
あらすじ・解説
「母の残像」「テルマ」などで注目されるデンマークのヨアキム・トリアー監督が手がけ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で女優賞を受賞、2022年・第94回アカデミー賞では国際長編映画賞と脚本賞の2部門にノミネートされた異色の恋愛ドラマ。30歳という節目を迎えたユリヤ。これまでもいくつもの才能を無駄にしてきた彼女は、いまだ人生の方向性が定まらずにいた。年上の恋人アクセルはグラフィックノベル作家として成功し、最近しきりに身を固めたがっている。ある夜、招待されていないパーティに紛れ込んだユリヤは、そこで若く魅力的なアイヴィンに出会う。ほどなくしてアクセルと別れ、新しい恋愛に身をゆだねたユリヤは、そこに人生の新たな展望を見いだそうとするが……。トリアー監督の「オスロ、8月31日」などに出演してきたレナーテ・レインスベがユリヤ役を演じ、カンヌ映画祭で女優賞を受賞。
引用:映画.com
30歳前後の女性の人生、成長を描いた物語でプロローグと12のチャプター、エピローグとに構成されています。断続的な物語の構成は、わたしたちが過去を思い出すときに断片的に想起するのと重なります。
映画『500日のサマー』では、
トムとサマーの500日間の恋模様を断続的に切り取って描くという構成でした。
こちらの記事で紹介しています、よしなに。
→【映画】『(500)日のサマー』トム&サマーのまなざし【伝説の95日目】
その点は両作共通しています。
ただ『500日のサマー』はトムとサマーの関係性に限定されたものでしたが、今作ではユリヤの大学時代~30代前半(くらい?)を描かれておりますのでスケールに違いがあり、恋人が一人どころではありませんね。
この点も、”最悪”を強調している部分かなと思います。
変化についての物語
変化できなきゃ、生きていけない
わたしはこの映画を変化についての物語と解釈しました。
はじめからさいごまで、ユリヤの”変化”が描かれています。
恋人、仕事、どれも続かない。
一貫性のない彼女の人生、たゆたい不安定な彼女の感情が淡々と描かれていきます。
『わたしは最悪。』という映画のタイトル、
”最悪”なのはなぜかを考えると…
自分が”変化”することで、他者にも変化を強要することになる
そして、変化は安定した状態から不安定な状態への経由をもたらす。ゆえに、「わたし悪いことした」になるんだと思います。
物語上では「わたし悪いことした」の矛先は、ユリヤからアクセルに向けられていますね。あらすじにありますとおりでございます。
アクセルはユリヤの変化に傷つくわけです。「ユリヤとの子どもが欲しかった…」という具合に、理想が打ち砕かれる。
また、変わるのは未来だけでなく過去も同様
大好きだった恋人と大喧嘩のすえに別れた場合、”大好き”の感情は変化するものです。
ユリヤの変化 → アクセルの変化の強要
というわけであります。
それは当然、「わたし悪いことした」って思ってしまうわけであります。
では、なぜユリヤは変化を望むのか。
→ そういうもんだから
というのが答えかなと思います。
諸行無常 → 万物はいつも流転し、
変化・消滅がたえないこと
この自然の摂理に従った、これがユリヤが変化する理由なのではないでしょうか。この摂理に抗おうとする人間のほうがおかしい、ということ。
ヨアキム・トリアー監督の過去作『テルマ』でも、宗教や科学でも御しきれない自然が表現されていたように思います。
(よかったらこちらもどうぞ→【映画 ヨアキム・トリアー監督作品】『母の残像』『テルマ』感想)
それと同じで、今作でもユリヤが日の出を眺め、涙ぐむシーンというかたちでが描かれているように思います。
自然への畏敬の念は、監督の作品に共通した特徴かもしれませんね。
自然に生きる(=本能に生きる) = 自由
ということを、映画『BECKY/ベッキー』の記事でも書きました。
(よかったらこちらもどうぞ→【映画】『BECKY/ベッキー』理性をしのぐ本能の美しさ)
すなわち、変化 = 自由の実感
ということを言いたい。
もっといえば、自然との一体化。
ユリヤの変化は、”一貫性”への反発としてあらわれ自由の希求、自然への回帰につながる。
『テルマ』
→宗教・科学
『わたしは最悪。』
→過去(記憶)・未来(理想)
といった感じで対比できるかと思います
変化しなきゃ、生きていけない
わたしは、しばしばこう思っております。
過去を変えられなくちゃ憂鬱
未来を変えられなくちゃ無気力
ユリヤにとってもきっとそうだった。
過去に関しては、父との関係性(詳しくは描写されていませんでしたが)
未来に関しては、一貫性への反発(母親の立場とか)
こういう過去や未来へのとらわれからの解放が、この映画に一番感動させられました。
変化は、人を傷つけると同時に人を救う
物語中盤のユリヤとアイヴィン以外、みんな静止している現象が最高のシーンなのは…
世界が止まる = 過去・未来がない = 自由の謳歌
だったからだと思います。
変化することは、悪いことではない。変化の実感は、わたしたちが自由であることの表現なのだから。そして、それはわたしたちが自然の一部であることを絶えず実感させる。
わたしたちは、最悪であり最高。
まとめ
ヨアキム・トリアー監督の映画は、
『母の残像』
『テルマ』
今作の『わたしは最悪。』で3作目。
今後も見逃せない映画監督となりました。
強烈な人間ドラマに、どことないミステリアスな感じ、そこが魅力です。
・変化を求めている人
・恋している人
におすすめです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。
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